| 6月1日 |
砂糖・マッチが配給制に(1940年、昭和15年) |
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日中戦争の長期化により軍事費が拡大され、1938年(昭和13年)4月に国家総動員法が発布された。この法律により、「ぜいたくは敵だ」というスローガンのもと、国民の消費財は切りつめられ、大都市では1940年(昭和15年)6月から、全国では11月から米や砂糖、マッチなどが次々と配給制となった。
配給を受けるためには切符が必要であった。切符は通帳式で配給を受ける人の名前と商店名が記入されており、それと引換えに記入されている商店で買う仕組みだった。砂糖は「一人一ヶ月三百六十瓦(九十六匁)」、マッチは一人一日五本。「三百六十瓦」は360gのこと。
尚、総力戦の下では食糧の統制はいわば「国際標準」で、程度の違いはあるが、連合国の米・英・仏でも配給が行われた。 【「らてまが」
vol.01 掲載】 |
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| 6月3-4日 |
天安門事件(1989年、平成元年) |
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1989年6月3日深夜から4日未明にかけ、中国の政治の民主化を訴えて天安門広場に集結していた市民・労働者・学生に対し、中国人民解放軍は戦車や装甲車を出動させて催涙弾や実弾で無差別発砲を行い、広場を制圧した。これにより数百ないし数千人が死亡し、約1万人が負傷したと推定される。
この流血の惨事は、その模様が北京に集まっていた各国のマスコミ関係者によって世界中に流され、大きな衝撃を与えた。一方、中国国内では真相は民衆に対して明らかにされず、民主化デモを「反革命暴乱」とするキャンペーンがはられて、多数の学生指導者や市民が逮捕された。
やがて、この弾圧を指示した最高責任者は中国政治の最高実力者のケ小平であることが明らかになった。ケ小平は民主化要求運動との平和的対話をしていた共産党総書記の趙紫陽を失脚させ、1978年以来、着実に成功を収めてきた「改革・開放政策」の歩みのなかに大きな汚点を残した。しかし、「改革・開放政策」そのものは継続され、中国は経済的には高度成長期へと入った。 【「らてまが」
vol.01 掲載】 |
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| 6月4日 |
別子銅山で争議おこる(1907年、明治40年) |
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江戸時代に住友によって開発された別子銅山(愛媛県新居浜市)は、明治初年いちはやく外国の技術を導入し産業革命のトップを走っていたが、労務管理は江戸時代のままであった。鉱山の外では農民との煙害闘争、中では鉱夫の労働争議で、大きな危機に直面した。
日露戦争直後、勝ち戦の国民の夢は物価の高騰にやぶられ、社会主義の新思想が広まるなか、別子銅山でも労働者と会社側との間で争議が起こった。1907年(明治40年)5月には、会社側が労働者の賃上げ要求の代表を解雇したために6月4日暴動が起き、軍隊が出動する騒ぎとなった。
いっぽう、同じ年、栃木県の足尾銅山では、賃上げ運動の採鉱夫と現場の係員との衝突から暴動にエスカレート。鉱夫がダイナマイトで見張所を爆破、施設を焼き払う事態になり、4月軍隊が出動し鉱夫を一斉逮捕し鎮圧した。
1月創刊されたばかりの日刊『平民新聞』は連日これを報道した。 【「らてまが」 vol.01 掲載】 |
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| 6月4日 |
張作霖爆殺事件(1928年、昭和3年) |
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1928年(昭和3年)6月4日、中国の東北軍閥の首領張作霖が乗った列車が奉天で爆破され、日中双方によって現場検証が行われた。事件の首謀者は関東軍参謀の河本大作大佐。張作霖は中国国民党の北伐軍に北京を追われて本拠地に帰還するところであった。
関東軍の意図は、国民党系の中国人のテロを演出し、その混乱に乗じて関東軍を出動させ満州を占領しようと企てたが、関東軍の出動の機会を得られず失敗。張作霖が独自の開発計画を進めるなど、しだいに日本の意にそぐわなくなってきたことも背景にあった。
政府は事件の真相を国民に隠し「満州某重大事件」と公表した。田中義一内閣は、事件の処理に関して昭和天皇の信用を失い、総辞職した。 【「らてまが」
vol.01 掲載】 |
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| 6月14日 |
ドイツ軍パリ占領【第二次世界大戦】(1940年、昭和15年) |
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1940年(昭和15年)、ドイツの大攻勢が始まり、デンマーク・ノルウェー・オランダ・ベルギーに侵入。5月にはマジノ線(フランスの対独国境の大要塞線)を電撃戦で突破してフランスに侵入し、フランスの港市ダンケルク(ドーヴァー海岸)に駐在したイギリス軍を大破して、6月14日パリに入城。ペタン内閣のもとでフランスは降伏した。ペタンは中部フランスの町ヴィシーに政府をたて、フランス第三共和政は廃止された。
ヴィシー政府は、ペタンを首班としドイツと協力するファシスト的政権で、フランス南半を“統治”し、北半はドイツ軍が占領した。
これに対し、ド=ゴール将軍はロンドンに自由フランス政府を樹立して、フランスのレジスタンス(対独抵抗)運動を指導した。 【「らてまが」
vol.01 掲載】 |
| 6月15日 |
サイパン島へ米軍上陸【太平洋戦争】(1944年、昭和19年) |
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マリアナ諸島のサイパン島は、第一次世界大戦後日本の委任統治領となり、サトウキビ栽培などで多くの日本人・朝鮮人が島へ渡っていた。太平洋戦争が勃発するとサイパン島は重要な戦略拠点となった。
ミッドウェイ海戦以後、アメリカ軍の反攻が本格化し、サイパン島でも、1944年(昭和19年)6月15日米軍の上陸が開始された。6万6千の米軍と近代的火力の前に、3万1千の陸海軍は敗退をつづけ、島の北方へ追いつめられ、7月7日未明「バンザイ突撃」の果てに玉砕した。このとき島にいた多くの民間人が、島の断崖絶壁から身投げをして自ら命を絶った。
現在この地は、「バンザイ岬」「バンザイ・クリフ」と呼ばれ、多くの慰霊碑がたてられている。
サイパン島が米軍のものとなると、島の飛行場から直接本土爆撃が可能になり、以後B29の大編隊による空襲が本格化した。 【「らてまが」
vol.02 掲載】 |
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| 6月15日 |
60年安保闘争、警官隊と衝突し東大生樺美智子が死亡
(1960年、昭和35年) |
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1951年(昭和26年)日米安全保障条約の調印により、アメリカの軍事基地として日本の領土を使用することが決まり、その後さらにアメリカが日本に同盟国としての軍事力整備を求めたのに応じて、1954年(昭和29年)に自衛隊が成立した。
さらに、岸内閣(第二次)は安保条約に日米対等の軍事同盟的性格を与えようとして新しい安保条約を結ぼうとした。これは、米軍が日本を防衛する一方で、日本が自国と在日米軍基地を防衛することを義務づけ、戦闘のさいの事前協議を制度化することを主な内容とした。これに対し、社会党・共産党・総評などが参加して反対闘争を展開した。
しかし、条約は1960年(昭和35年)1月に調印され、同年5月、警官隊による厳重な警備のなかで、政府・自民党は国会で批准のための強行採決をおこなった。
これを議会制民主主義の危機ととらえた人々は、反対運動を組織、その後1か月連日30万人を越すデモ隊が国会周辺を取り巻いた。6月15日には、南通用門から国会へ突入した全学連主流派が警官隊と衝突し、この混乱の中で東大生樺美智子さんが死亡する事件がおきた。新条約は6月19日デモ隊が国会を包囲するなかで自然成立し、岸首相が退陣すると運動は急速に収束した。1970年(昭和45年)にも条約期限更新にさいして安保反対闘争が起こった。 【「らてまが」
vol.02 掲載】 |
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| 6月25日 |
馬車鉄道開業(1882年、明治15年) |
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馬車鉄道は、路面の線路を馬が客車を引っ張って走ったもの。定員は24〜27名。
新橋−日本橋間の馬車鉄道の開通は、1882年(明治15年)6月、同年9月には上野広小路まで、10月には浅草までの路線が完成。新橋−日本橋間で一等三銭、二等二銭の運賃であった。
運賃は高くはなかったが、馬糞にてこずった。当時の新聞では、事故死がでたことや失業を恐れた人力車夫が馬車の通行妨害をしたことなどを報じた。
新たな交通手段の登場に面食らう人々もいただろう。 【「らてまが」 vol.02
掲載】 |
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| 6月25日 |
松竹レビュー争議で高野山に立て篭もり(1933年、昭和8年) |
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松竹楽劇部は、女性客の人気の高まりの中で、1932年(昭和7年)に松竹少女歌劇団と改称して、SSKの愛称で親しまれた。真なる女性の美しさを追求するステージが人気を呼んだ。
1933年(昭和8年)、SSKは踊り子たちの待遇改善、労働強化反対などの嘆願書を会社へ提出した。しかし会社側は劇場閉鎖で対抗したため、争議となった。
18才の「ターキー」こと水の江滝子委員長のもとで、1933年(昭和8年)6月にスト突入。その後、東京のストが大阪にも飛び火し、大阪松竹座が高野山に篭城した。
ストはターキー委員長の活躍で勝利。舞台さながらの女性の勇姿が話題となり「踊り子たちの紅い気炎」と報じられた。 【「らてまが」
vol.02 掲載】 |
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| 6月30日 |
ビートルズの来日公演(1966年、昭和41年) |
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イギリス・リヴァプール出身のバンド、ザ・ビートルズは、1962年に「ラヴ・ミー・ドゥ」がヒット、1964年に「抱きしめたい」が世界的成功を収め、1965年にはエリザベス女王からMBE勲章を受章した。
そのような人気絶頂の時期に日本公演がおこなわれた。台風4号が関東地方を通過したあとの1966年(昭和41年)6月29日早朝、羽田空港で飛行機のタラップに降り立ったビートルズは、詰めかけたファンの熱狂的な歓迎を受けた。宿舎となったヒルトン・ホテルや公演会場の日本武道館には、ビートルズの姿を一目見ようと全国から大勢の若者が押し寄せ、6520人が警察に補導された。その盛り上がりの一方で、群衆の整理とビートルズの警護のために機動隊まで出動し、ものものしい雰囲気があった。
公演は6月30日から7月2日まで日本武道館で行われたが、会場は泣き叫ぶ若者たちで埋め尽くされ、その狂乱ぶりは社会現象として注目された。 【「らてまが」
vol.02 掲載】 |
| 7月3日 |
大阪に通天閣が完成(1912年、明治45年) |
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1912年(明治45年)7月3日、大阪・天王寺の第5回「内国勧業博覧会」[1903年(明治36年)開催]の跡地に、パリのエッフェル塔に似せて作られた「通天閣」とニューヨークのコニーアイランドをまねた遊園地「ルナパーク」が完成した。
この一帯は通称「新世界」と呼ばれ、多くの人々でにぎわった。
通天閣は当時日本一の高さ75mを誇り、エレベーターで展望台に上がることができた。ルナパークは入場料が5銭。豊臣秀吉の人形が電気仕掛けで動く「不思議館」や日本髪を結った美人が井戸の底にいるかのように見える「美人探検館」といった施設があった。
通天閣は太平洋戦争で金属の不足を補うために1943年(昭和18年)に解体され、1956年(昭和31年)に再建された。 【「らてまが」
vol.03 掲載】 |
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| 7月4日 |
閣議で成田空港の建設地が三里塚に決定
(1966年、昭和41年) |
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1966(昭和41年)7月、政府は、新東京国際空港の建設地を成田市三里塚に決定し、これに反対する地元農民が「成田空港反対同盟」を結成して反対闘争を展開した(成田闘争)。
基地反対運動、ベトナム反戦運動、大学闘争運動などが高揚するなかで、当初は社会・共産両党の支援をうけた農民闘争は、学生運動組織の三派全学連が加わることで新左翼運動の性格を強め、闘争は激しさを増した。農民・学生側と警官隊の衝突が繰り返され、双方に多数の死傷者が出、逮捕者も多く、闘争は戦後有数の政治闘争となった。この闘争のため、計画されていた三本の滑走路のうち一本だけしか整備されず、残りの工事は凍結された。
1978年5月20日成田空港は開港した。長期にわたる闘争で反対派農民も分裂し、1994年運輸省・空港公団が過去の強行方針の誤りをみとめ、反対派農民の一部との間で合意が成立した。
2002年4月、二本目の滑走路がオープンしたが、当初計画より300M短いため「不安」の声もきかれる。 【「らてまが」
vol.03 掲載】 |
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| 7月6日〜 |
オリンピックへ日本初参加−第5回ストックホルム五輪大会(1912年、明治45年) |
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1912年(明治45年)7月スウェーデンのストックホルムで第5回オリンピック大会が開催され、アジアから日本が初参加した。マラソンの金栗四三(東京師範学校の学生)と短距離の三島弥彦(東京帝国大学の学生)の2選手が出場したが、結果は棄権と失格に終った。
日本選手団は、金栗四三がプラカードを持ち、旗手を三島弥彦がつとめ、以下、嘉納治五郎団長、大森兵蔵監督、田島京大教授、内田公使が入場行進した。選手と役員の経費はすべて自己負担であったため、東京在住の豊かな家に育った三島とちがい、熊本出身の金栗はクラスメートが「友情拠金」をして応援した。
団長の嘉納治五郎は、講道館柔道の創始者で、クーベルタンによってアジア最初のIOC(国際オリンピック委員会)委員に任命され、大日本体育協会(日本体育協会の前身)を設立し、両選手を選抜してストックホルムに乗り込んだ。金栗は、アントワープ(20年)、パリ(24年)と連続してマラソンに出場したが入賞は果たせなかった。
戦後、同志をつのって、47年福岡で「金栗賞マラソン大会」を開き、それが現在の「福岡マラソン」に至っている
。大森兵蔵はアメリカで近代スポーツを学び日本にバスケットボールとバレーボールをはじめて本格的に紹介した人物だが、大会の帰途アメリカで肺結核のため死亡した。 【「らてまが」
vol.03 掲載】 |
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| 7月7日 |
盧溝橋事件 日中戦争へ(1937年、昭和12年) |
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1931年の満州事変以来、日本の中国・東北への侵略は本格化し、翌年には満洲国を成立させた。1935年(昭和10年)に入ると、日本軍の矛先は中国・華北へと拡大した。抗日運動への支援を断ち切り、華北の石炭・鉄・棉花などの資源を獲得することが狙いであった。広田弘毅内閣は華北にいた日本軍を三倍に増やし、また同年11月満州事変における塘沽停戦協定の非武装地帯に日本の傀儡政府である冀東政権(1935年〜1938年(昭和13年))を成立させた。
これに対して、中国側は1935年(昭和10年)の一二・九運動、1936年(昭和11年)12月の西安事件などを経て抗日民族統一戦線を組織して対抗した。1937年(昭和12年)7月7日、北平(現・北京)郊外の盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍は、数発の実弾射撃を受けたことを口実にして、その夜のうちに大部隊を集めて中国軍を攻撃した。さらに、日本軍は7月中に北平・天津を占領、8月第二次上海事変、と戦線を拡大した。
こうして日中戦争は全面化し、さらに中国人差別を背景にした残虐行為も拡大した。同年12月に日本軍が国民政府の首都南京を占領した際に起こった南京大虐殺は、それが最も悲惨な形で現れた例である。
日中戦争における中国人死者は、満州事変から数えて2000万人にも及ぶといわれる。また、その多くは軍人ではない民衆であった。 【「らてまが」
vol.03 掲載】 |
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| 7月14日 |
フランスで人民戦線結成の大示威運動行われる(1935年、昭和10年) |
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世界恐慌下のフランスでは政治は不安定で腐敗し、小党乱立・短命内閣が続いたが、1933年(昭和8年)ドイツにヒトラー内閣が誕生すると、フランス国内でもファシズム的右翼勢力の勢いが増した。
翌34年(昭和9年)には右翼団体が街頭で流血事件を起こすなど、その政治行動は激しさを増した。こうした右翼勢力の行動に危機感を抱いた社会党と共産党は、同年7月に共同歩調をとることで合意し、翌35年(昭和10年)には急進社会党、労働組合、知識人、婦人団体などもこれに加わって、7月14日(フランス革命記念日)パリで40万人の大示威運動が展開され、人民戦線(ファシズムと戦争に反対の全勢力と組織を結集した反ファシズム人民統一戦線)が成立した。
翌36年5月の総選挙では人民戦線の諸党は大勝し、6月4日レオン・ブルム(社会党)を首班とする人民戦線内閣が誕生。人民戦線の熱気はフランス全土に波及した。 【「らてまが」
vol.03 掲載】 |
| 7月15日 |
三鷹事件−無人電車の暴走(1949年、昭和24年) |
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1949年(昭和24年)7月15日、中央線三鷹駅で無人電車が暴走、三鷹駅改札口と階段をぶち抜き、駅前の派出所を全壊させ、民家に突入した。この事故で乗客6人が死亡した。
デフレ政策・超緊縮予算のドッジラインが実施されている中で、事故に先立つ7月1日には、3万700人の国鉄労働者の人員整理が通告され、12日には6万3千人の整理が通告されていた。こうした中で事故がおこった。
捜査当局は共産党員の計画的犯行として国鉄労組員12名を起訴、50年(昭和25年)に非党員の組合員竹内被告の単独犯と断定し、55年(昭和30年)に最高裁で死刑判決が確定した。被告は無罪を主張しつつ69年(昭和44年)に病死した。
1949年(昭和24年)の国鉄をめぐる事件には、三鷹事件の他に、7月6日の下山国鉄総裁の轢死事件、8月17日の東北線松川駅附近の列車転覆事故があり、この時期に集中して三つの事件が国鉄をめぐって起きていることから、左翼運動を弾圧するために仕組まれたという疑惑ももたれている。 【「らてまが」
vol.04 掲載】 |
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| 7月16日 |
アポロ11号月面着陸
(1969年、昭和44年) |
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アメリカのNASAによって1960年(昭和35年)「アポロ計画」と呼ばれる有人の月面探査計画が発表された。これにはソ連に人工衛星開発などでリードされたアメリカの国としての権威がかけられていた。
1961年にケネディ大統領は「アメリカは1960年代に人類を月に着陸させ無事地球に帰還させることを国家目標として宇宙開発を進める」との声明を発表した。
こうして進められたアポロ計画の結果、1969年(昭和44年)7月16日、アポロ11号が打ち上げられ、7月20日に月面に到着した。
アームストロング船長は、「それは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては巨大な躍進である」と述べた。 【「らてまが」
vol.04 掲載】 |
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| 7月27日 |
田中前首相逮捕−ロッキード事件(1976年、昭和51年) |
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「田中前首相を逮捕」という衝撃的ニュースが早朝の日本全土を走った。
すでに田中金脈問題で辞任していた田中角栄前首相は、アメリカの航空機会社ロッキードのエアバス売り込みのための工作資金5億円をうけとり、それに伴う外為法違反の疑いで逮捕された。
ロッキード社による政治献金は、1976年(昭和51年)2月アメリカで発覚した。ロッキード社はこのおかげでマグダネル・ダグラス社を蹴落として全日空へのエアバス・トライスターの売り込みを成功させ、そのための工作資金5億円が田中前首相にわたった。
内閣総理大臣に在職時の疑獄事件が暴かれたのは1948年(昭和23年)の昭和電工疑獄事件以来のこと。 【「らてまが」
vol.04 掲載】 |
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| 7月28日 |
第9回アムステルダム五輪大会
人見絹江日本陸上女子初のメダル獲得(1928年、昭和3年) |
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1928年(昭和3年)の第9回オリンピック・アムステルダム大会・陸上女子800mで人見絹枝選手が2位入賞を果し、日本人女子陸上で初のメダルを獲得した。タイムは2分17秒4、ゴールでは決勝レースに出場した9名全員が倒れこむほどの激しいレースだった。
人見選手は1926年(大正15年)夏にスウェーデンで開かれた国際女子陸上競技大会で、幅跳びなど4種目に優勝する大活躍をみせ個人総合優勝。日本人女性の存在を世界に示す快挙を成し遂げていた。
1929年(昭和4年)までに7種目に10回世界記録を書き換える活躍をみせたが、1931年(昭和6年)肋膜炎で倒れ24才の短い一生を閉じた。 【「らてまが」
vol.04 掲載】 |
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| 7月31日 |
第12回(次期)オリンピック開催地、東京に決定(1936年、昭和11年) |
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1936年(昭和11年)7月31日、ベルリン・オリンピック開催の前日、次期オリンピック開催地は、ライバルのローマ、ヘルシンキを破って東京に決定した。
東京でのオリンピック開催決定に日本中がわいたが、1937年(昭和12年)に日中戦争がはじまり長期化するなかで、1938年(昭和13年)7月に大会を返上し、第12回東京オリンピック大会は幻となった。東京でオリンピックが開催されたのは、戦後、1964年(昭和39年)、第18回大会。 【「らてまが」
vol.04 掲載】 |
| 8月1日 |
甲子園球場完成(1924年、大正13年) |
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1924年(大正13年)8月、阪神甲子園球場が5ヵ月足らずのスピード工事で西宮市に完成した。
広さ4ヘクタール、収容人員5万8千人の大球場で、内野側上部を名物の「鉄傘」がおおっていた。球場が完成した年が暦の上で60年に一度めぐってくる「甲子」という「始まりの年」にあたっていたので「甲子園」の名が付けられた。
1915年にはじまった全国中等学校野球大会(現在の高校野球)はこの年で10回目を迎え、19チームが参加。8月13日、新球場での開幕戦に超満員の観客が大声援を送った。 【「らてまが」
vol.05 掲載】 |
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| 8月3日 |
米騒動が全国へ波及
(1918年、大正7年) |
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第一次世界大戦中の1915年(大正4年)半ばからの好景気は、一部の「成金」を生み出したが、民衆は物価の急上昇によりかえって生活難に陥った。しかし、寺内正毅内閣はインフレを抑えようとしないばかりか、地主を守るために外国米に高い輸入関税をかけ、さらに1918年(大正7年)のシベリア出兵の影響によって、米価が高騰した。
こうしたなか、1918年(大正7年)7月下旬富山県魚津町・滑川町などの猟師の妻などが大挙して役所へ押しかけたり、米屋に安売りを求めた。8月3日には同じく富山県の西水橋町で米屋に安売りを脅迫する「女一揆」へと発展し、約1週間後には京都・大阪・名古屋などの大都市を始め全国へと拡大した。
米騒動の参加者は何百万人にも達した。運動は農村の小作争議や労働者の賃上げ争議とも結びつき、農民・婦人・部落解放運動・学生運動・普選運動・社会主義運動などにも刺激を与えた。
政府は軍隊・警察によりこれを厳しく弾圧しようとしたため世論の支持を失った。その結果、同年9月寺内内閣は退陣した。 【「らてまが」
vol.05 掲載】 |
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| 8月5日 |
四国連合艦隊下関砲撃事件(1864年/旧暦、元治元年) |
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尊王攘夷の急先鋒長州藩は、下関(馬関)海峡を通る外国船を次々に砲撃した。これに対して1864年(元治元年)アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊が報復のため下関を攻撃し、長州藩は惨敗した。これを下関戦争もしくは馬関戦争という。
藩内ではイギリス留学から急ぎ帰国した伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)が戦闘を回避すべく奔走したが、結局8月5日開戦。連合軍は陸戦隊を上陸させ3日間で下関砲台のすべてを破壊した。 【「らてまが」
vol.05 掲載】 |
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| 8月6日 |
広島に原爆投下される(1945年、昭和20年) |
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世界で初めて原爆を投下したアメリカ空軍B29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、1945年(昭和20年)8月6日テニアン島を発進し、重量5トン、TNT火薬2万トン相当の破壊力をもつ原爆を、広島に投下し、推定20万の人命を奪った。
原爆の閃光は、強力な熱線を伴い物体の表面を焼き、万代橋には人影が焼き付けられて残った。爆心地にあった産業奨励館は、現在は永久保存の原爆ドームとして残され、原爆の恐ろしさを伝えている。現在はユネスコの世界遺産である。
8月9日には、広島に続き長崎にも原子爆弾が投下され、約8万人が死亡した。歴史のターニング・ポイントを演じた「エノラ・ゲイ」は、一時解体されかかったが、アメリカのワシントンにある国立航空宇宙博物館に保管されている。「エノラ・ゲイ」の展示をめぐっては、アメリカ国内で「原爆投下は戦争終結に必要だった」「原爆投下は人道にもとる罪だ」など、政治的、道義的に多くの議論が噴出した。 【「らてまが」
vol.05 掲載】 |
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| 8月12日 |
日航ジャンボ機墜落事故(1985年、昭和60年) |
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1985年(昭和60年)8月12日、羽田発大阪行きの日航123便(ジャンボ機ボーイング747SR機)が、離陸して29分後「右側後部ドア破損、緊急降下中」の連絡を最後に消息を絶った。同日午後6時56分過ぎにジャンボ機はダッチロール(迷走)を起こし、そのまま群馬県の御巣鷹山(おすたかやま)山腹に墜落した。
乗客・乗務員520名が死亡し、日本航空史上最大の事故となった。乗客のうち、四人だけは奇跡的に救出された。犠牲になった人々の中には単身赴任のサラリーマンなども多く、ダッチロールの恐怖の中で家族にあてて遺書を書いた人もいた。遺体は広範囲に四散していたため、収容作業は一ヵ月もの間続けられた。
事故原因は、機体後部の圧力隔壁に貝殻状の波紋が発見されたことから、隔壁の金属疲労による破損と、それにともなう尾翼の破損と判定された。金属疲労を発見できなかった「ジャンボジェット」の「定期検診」の信用性が問題となった。 【「らてまが」
vol.05 掲載】 |
| 8月15日 |
ドル・ショックおこる(1971年、昭和46年) |
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1971年(昭和46年)8月15日(日本時間)、アメリカ大統領ニクソンは「新経済政策」を発表し、その一環としてドルと金の交換を停止し、10%の輸入課徴金賦課(実質的にはドル切下げの意味をもつ)を発表した。この発表は世界に大きな衝撃を与え、ニクソン・ショック(ドル・ショック)と呼ばれた。
これに対応して、日本を含む主要国は、変動相場制に移行した。第二次世界大戦後の国際的な通貨制度はブレトンウッズ体制と呼ばれ、IMF(国際通貨基金)の管理のもとで各国の平価は米ドルと固定相場で結びついていた。日本は1ドルは360円。しかし、1960年代に入って、ヴェトナム戦争などでアメリカの国際収支の赤字が増大し、国際基軸通貨としてのドルの地位が危機的となり、ニクソン・ショックにつながった。
同年12月には、為替の動揺を防ぐために、固定相場に復帰したが、1973年(昭和48年)には再び通貨危機が発生し、各国は変動相場制へ移行した。【「らてまが」
vol.06 掲載】 |
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| 8月18日 |
第1回全国中等学校野球大会開催
(1915年、大正4年) |
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1915年(大正4年)8月18日に大阪・豊中グラウンドで、第1回「全国中等学校優勝野球大会」(夏の高校野球大会のルーツ)が開かれた。
第1回大会に出場したのは秋田中、早稲田実業、京都二中、山田中、和歌山中、神戸二中、鳥取中、広島中、高松中、久留米商の10校で、京都二中が優勝した。
会場が阪神甲子園球場に移されたのは第10回大会、1924年(大正13年)から。なお、同野球場は完成が1924年の甲子(きのえね)の年だったことから命名された。【「らてまが」
vol.06 掲載】 |
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| 8月19日 |
飛行船グラーフ=ツェッペリン日本へ(1929年、昭和4年) |
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ドイツの飛行船製造会社ツェッペリン社は、1928年(昭和3年))「LZ−127」、通称「ツェッペリン伯号」(グラーフ=ツェッペリン)を建造した。同号はヘリウムガスによって浮力を確保しており、ガス容積105,000立方m、全長236mという巨大なもの。巡航速度110km/時で飛んだ。
1929年8月から9月にかけ、アメリカのレークハーストから、ドイツのフリードリヒスハーフェンを経て、東京、ロサンゼルスなどを通る3万キロ超の世界一周飛行の途中で、シベリアを横断し、北海道上空を経て、8月19日夕刻、茨城県・霞ケ浦海軍航空隊の飛行場に着陸した。霞ヶ浦には、第一次世界大戦の戦利品として押収された敗戦国ドイツの格納庫があったため、ここが着陸地点に選ばれた。
歓迎式場は熱気と興奮に包まれ、設計者のエッケナー博士とレーマン船長は歓迎攻めにあった。飛行船は4日間滞在し、多くの人々が見物に訪れた。
当時のドイツでは飛行船の建造が盛んに行われていたが、ヒンデンブルグ号爆発の惨事(1937年5月)などの度重なる事故によって、飛行船の時代の幕は下ろされることになる。 【「らてまが」
vol.06 掲載】 |
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| 8月20日 |
チェコの民主化にソ連軍事介入(1968年、昭和43年) |
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チェコスロヴァキアでは、1960年代後半経済状況のゆきづまりを打開するために、改革がはじまった。
1968年第一書記となったドプチェクは、「人間の顔をした社会主義」を掲げて、自由化・民主化に取組みはじめた。6月には知識人たちが、民主化・自由化の停滞を批判する「2000語宣言」を発表し、民主化・自由化を求める声は日に日に高まった。
しかし、この運動が自国に拡大することを警戒したソ連・東欧5ヵ国は、軍事介入し全土を制圧した。「プラハの春」といわれたチェコの民主化運動は、失敗に終わった。ソ連のブレジネフ書記長はこの軍事介入を「社会主義陣営全体の利益は一国の利益に優先する」という考え(制限主権論)によって正当化した。 【「らてまが」
vol.06 掲載】 |
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| 8月22日 |
韓国併合(1910年、明治43年) |
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3次にわたる日韓協約をへて、日本の朝鮮支配は決定的になった。日本は相次ぐ義兵運動を弾圧、税制改革などによって経済的植民地化を進め、1909年(明治42年)7月桂太郎内閣(第二次)において植民地化の実施方針が閣議決定された。
その後、日本は韓国併合の要求が朝鮮人からも出たと思わせるために親日団体「一進会」を援助し、その結果一進会は1909年(明治42年)、初代韓国統監・伊藤博文の暗殺後に「合邦声明」を発表した。
伊藤が暗殺されてのち、1910年(明治43年)5月、寺内正毅陸軍大臣が兼任のまま第3代統監になると、同年8月22日、「韓国併合に関する条約」が軍事占領下の「京城」(現・ソウル)において日本側の圧力のもとで結ばれた。これによって「大韓帝国」は消滅し、日本は朝鮮半島を植民地とした。
併合にともない統監府は朝鮮総督府へと名を改め、天皇に直属し、強大な権限を持つ総督のもとで軍政が行われた。これは「武断政治」と呼ばれる。
ほとんどの朝鮮語新聞・雑誌は廃刊となり、「国語(日本語)」が強制されるなど、同化主義にもとづくきびしい統治政策が展開された。初代総督には寺内が就任した。 【「らてまが」
vol.06 掲載】 |
| 9月1日 |
ドイツ軍、ポーランドへ侵攻(1939年、昭和14年) |
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第一次世界大戦後に締結された対ドイツ講和条約(ヴェルサイユ条約)では、ドイツ領であったダンツィヒ(現ポーランドのグダニスク)は国際連盟管理下の自由市、同じくドイツ領であったポーランド回廊(ドイツと東プロイセンにはさまれた地域)はポーランド領に編入された。
しかし、両地域ともドイツ系住民が多く、またダンツィヒは重要な港市でもあり、ドイツの不満は残った。ドイツでは、1933年以降ナチス・ヒトラーが独裁体制をしき、こうしたドイツ人感情を背景にして、第一次世界大戦で失ったドイツ人居住地域を併合し、ヴェルサイユ条約で禁止されたオーストリアとの合邦を推し進めた。
こうして1939年3月には、ポーランド回廊の割譲を要求した。ポーランドは、イギリス・フランスの支持を得てヒトラーの要求を突っぱねたが、ドイツは同年8月、ソ連と独ソ不可侵条約を締結し、9月1日ポーランドに侵入し目的を達成した。
ヒトラーの計算では、独ソ不可侵条約を結んだことで、イギリス・フランス両国はポーランドを見殺しにするはずだったが、この予想は見事にはずれ、イギリス・フランス両国は、9月3日、ドイツに宣戦布告し、ヨーロッパは第二次世界大戦へと突入した。【「らてまが」
vol.07 掲載】 |
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| 9月3日 |
王貞治 756号本塁打世界新達成
(1977年、昭和52年) |
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1977年(昭和52年)9月3日、巨人軍の王貞治選手(現ダイエー監督)は、後楽園球場の対ヤクルト戦でプロ通算756号ホーマーを打ち、大リーグのハンク・アーロンの記録を破って世界新記録を樹立した。その後引退までに記録を868本に伸ばし、国民栄誉賞を受賞した。【「らてまが」
vol.07 掲載】 |
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| 9月8日 |
サンフランシスコ平和条約・日米安保条約(1951年、昭和26年) |
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1951年(昭和26年)9月サンフランシスコ講和会議が開かれ、日本側は吉田茂首相が参加、連合国48ヵ国との間に第二次世界大戦の講和条約が締結された(9月8日)。
日本国内では、日米軍事同盟体制の固定化に反対し、ソ連、中国を含む全交戦国との講和を望む全面講和論と、対米講和を急ぐ単独講和論が対立した。吉田内閣は後者の立場から講和を急ぎこの日をむかえた。
会議に参加した国のうち、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアは条約への署名を拒否した。また、中国、朝鮮は招待されず、インド、ビルマは参加を拒否した。これらの国々とは、その後、個別に関係回復がはかられた。
占領下の日本は、平和条約の成立により主権を回復したが、領土については朝鮮・台湾・澎湖諸島・千島・南樺太を放棄したが、ソ連との間の千島列島、中国との間の尖角諸島などをめぐる領土問題が残された。賠償については日本の資源不足を理由にして連合国は原則的に放棄し、被侵略国については個別に取決めがなされることとされ、結果として日本は巨額の賠償請求をされずにすんだ。
これは、アメリカが冷戦構造下において日本の経済成長を望んだこと、被侵略国の中国が革命による分断で会議に参加しなかったことなどによる。また、条約は日米安保条約(米軍駐留と基地提供、日本の防衛力増強を期待)と抱き合わせにして結ばれた。これは日本がアメリカのもとで再軍備路線を進むことを意味していた。 【「らてまが」
vol.07 掲載】 |
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| 9月12日 |
国産第1号の原子炉(1962年、昭和37年) |
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1962年9月、茨城県東海村の日本原子力研究所で国産第1号の原子炉(JRR-3)が臨界に達し、国産初の「原子の火」がともった。
JRR-3は研究炉(原子物理学などの研究のための原子炉)で、燃料と一部の材料を除いて設計から建設までのほとんどを日本人が担い、多くのメーカーの技術を総動員して完成した。原子炉出力1万KW。
国産原子炉の構想は、1954年(昭和29年)に海外調査団が、一号炉の輸入と国産原子炉の設置を同時に勧告したことから、学術会議に委員会が設置され、自給可能な天然ウランを使う原子炉を国産することが決まり、以後研究がすすめられた。
JRR-3は、1966年から共同利用運転を開始し、さまざまな原子力研究開発に貢献した。次第に研究が高度になるにつれその性能が限界となり、1985年から改造工事に着手され、1990年3月改造後初の臨界に達し、同年11月から運転が再開されている。改造後の出力は20万KW。【「らてまが」
vol.07 掲載】 |
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| 9月15日 |
ソンムの戦い 新兵器・戦車が登場(1916年、大正5年) |
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第一次世界大戦は1914年7月18日、オーストリアがセルビアに宣戦布告して始まり、空前の大戦争に拡大したが、毒ガス・戦車・飛行機などの新兵器と国民の生産力を背景とする総力戦の様相を示した。
ソンムの戦いは、第一次世界大戦中の激戦の一つで、イギリス軍がはじめて戦車を投入した戦いとして知られる。1916年6月以降、イギリス・フランス連合軍は、西部戦線における膠着状態を打破するために、フランス西北部のソンム河畔で、ドイツ軍に対して大攻勢に出た。イギリス軍がはじめて戦車(マークI型)を使用したのはこの戦いの9月15日のこと。
戦いは11月まで続き、連合軍90万、ドイツ軍60万の死傷者を出すという大損害を双方にもたらしたが、勝敗が決しないまま終わり、大戦の決定的な転機とはならなかった。しかし、戦車は前線突破の新兵器として注目され、第一次世界大戦中に、フランス軍、ドイツ軍も戦車を製造・使用し、戦争末期には現代戦車の基本型ができあがった。【「らてまが」
vol.07 掲載】 |
| 9月18日 |
満州事変起こる(1931年、昭和6年) |
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中国・東北軍閥の首領張作霖を関東軍が爆殺した事件(1928年)がおきて以降、中国に対する日本の侵略政策は強まっていた。関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らが満州の領有を構想する一方で、張作霖の後継者となった息子の張学良は日本との対決姿勢を強めた。
こうしたなか、1931年9月18日、関東軍は満鉄線路を奉天郊外の柳条湖で爆破し、これを中国軍の仕業として、軍事行動を開始した。これを柳条湖事件もしくは南満州鉄道爆破事件といい、これに引き続く一連の戦争拡大を満州事変という。
政府はこの事件に対して当初「不拡大方針」をとったが、関東軍はこれを無視して戦いを続行し、瞬く間に奉天・長春・吉林などを占領し、政府はこれを追認する格好になった。年末までには、張学良の部隊を駆逐し中国東北部を占領し、翌32年3月、清朝最後の皇帝・宣統帝溥儀をかついで「満洲国」を樹立した。
蒋介石の国民党政府は中国国内の統一を優先し、国際世論の圧力に期待して、張学良に日本への不抵抗を命じる一方で、満州事変に関して国際連盟に提訴した。国際連盟は日本の侵略行為を阻止できなかったが、1933年になって「満洲国」が自発的な独立運動の結果生まれたものではないとするリットン報告書を採択した。【「らてまが」
vol.08 掲載】 |
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| 9月26日 |
青函連絡船洞爺丸 遭難
(1954年、昭和29年) |
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1954年(昭和29年)9月26日、台風の接近で津軽海峡附近は平均風速40mを超す強風が吹いていた。このため青函連絡船の洞爺(とうや)丸は出港を見合わせていたが、午後6時半すぎ天候回復と判断して函館港を出港した。
しかしその直後に突風に襲われ航行不能となり、函館湾外七重浜沖で坐礁転覆した。死者・行方不明者1155人を数える我が国最大の海難事故となった。
青函連絡船は、1908年に開業して以来、函館と青森の間を多くの貨車と乗客を運んだが、1988年3月に青函トンネルが開業し廃止となった。【「らてまが」
vol.08 掲載】 |
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| 9月27日 |
マッカーサーと昭和天皇の初会見(1945年、昭和20年) |
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1945年8月15日、ポツダム宣言を受諾した日本は、アメリカを主力とする連合国の占領下に入った。
9月29日には、昭和天皇がGHQ(連合国軍総司令部)最高司令官のマッカーサー元帥と会見した。このときの写真が新聞で報道されたが、正装のモーニング姿の昭和天皇と、普段着で大柄なアメリカ人将軍マッカーサーが並んで立っている対照的な様子が、当時の国民に大きな衝撃を与え、敗戦の事実をもう一度噛み締めることとなった。戦中は天皇の写真は「御真影」以外はほとんど撮影禁止であった。 【「らてまが」
vol.08 掲載】 |
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| 9月29日 |
新潟水俣病裁判 勝訴(1971年、昭和46年) |
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新潟水俣病は、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で生じる廃液が、阿賀野川にたれ流しにされ、廃液に含まれるメチル水銀が、食物連鎖を通じて、流域住民の健康をおかしたもので、1965年(昭和40年)に発生が確認された。四肢の麻痺や言語障害、視野狭窄、難聴などの症状をともない、多くの死者を出した。
新潟水俣病は、それより以前に発生していた水俣病(熊本)、四日市ぜんそく(三重)、イタイイタイ病(富山)とあわせて四大公害のひとつに数えられた。
1967年6月、新潟水俣病患者は、四大公害病としてはじめて、昭和電工を相手取って損害賠償請求をおこした。裁判では、水銀中毒の原因が争われたが、被告昭和電工は新潟地震(1964年)によって流出した農薬が原因だと主張した。
しかし、新潟大学医学部が地震より1年前に採取された魚を入手し、分析した結果、最高9.93ppmという高濃度の有機水銀を検出した。これによって、それまでに7人が死亡し、47人の患者が出ていた水銀中毒事件(新潟水俣病)の原因が、昭和電工の排出する水銀によるものであることが明らかになった。裁判は1971年9月29日勝訴となった。
四大公害裁判ではいずれも原告側の損害賠償請求が認められ、裁判を通じて公害の原因と法的責任が明確化され、その後の公害問題への警鐘となった。
【「らてまが」 vol.08 掲載】 |
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| 9月29日 |
日中国交正常化(1972年、昭和47年) |
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第二次世界大戦後、中国は大陸の共産党政権(中華人民共和国)と台湾の国民党政権(中華民国)に分裂した。この分裂は、中国にとって国際政治の上で非常に不利な状況をもたらした。両政府ともに1951年(昭和26年)のサンフランシスコ講和会議には招かれず、1952年(昭和27年)に日本は台湾と単独に日華平和条約を結んだが、台湾は過去の戦争に対する賠償請求権を放棄せざるをえなかった。中華人民共和国は冷戦構造のなかで国際的に孤立し、日本とも国交のない状態が持続した。
しかし、1960年代末から中華人民共和国をめぐる国際環境は大きく変化した。同盟国ソ連との関係が悪化する一方で、1971年(昭和46年)国連復帰を実現し(台湾は国連を脱退)、翌72年(昭和47年)2月にはニクソン米大統領が中国訪問を訪問した。
こうしたなかで同年9月、田中角栄首相が訪中し、周恩来らと会談して日中共同声明を発表した(9月29日)。これによって日中間の国交は回復し、日本は台湾との外交関係を断絶した。中国は文化大革命で混乱した経済を立て直すために、日本の経済援助を必要としていたこともあって、日本に対する賠償請求権を放棄した。 【「らてまが」
vol.08 掲載】 |
| 10月1日 |
第1回国勢調査(1920年、大正9年) |
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1871年(明治4年)、明治政府は「家」を単位にした国民管理のため戸籍法を定めた(戸籍制度は世界的にはアジアの数ヵ国だけにあった)。しかし、都市への人口移動が進む中で、「家」は生活実態とはかけ離れてゆき、政府は新たに「世帯」単位の一斉統計調査(国勢調査=census)を必要とした。
1920年(大正9年)10月1日に第1回国勢調査が行われるにあたり、1918年に国勢調査施行令が出され、近代史上最大の調査のための啓蒙運動が展開された。調査項目は、氏名・世帯での地位・性別・出生年月日・配偶関係・職業および職業上の地位・出生地・国籍・族籍(士族・平民など、戦前期のみ)に及び、5年毎に簡易調査、10年毎に本調査が実施され、国民動員のための基礎資料を提供しつつ現在に至っている。
社会学者の戸田貞三は第1回調査をもとに、7割強の世帯が単純な核家族であり、都市型の家族が多数をしめることを明らかにした。
第1回国勢調査の結果は、日本内地の人口が5596万3053人、植民地であった朝鮮・台湾など外地の人口が2102万5326人であった。
【「らてまが」 vol.09 掲載】 |
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| 10月3日 |
東西ドイツ統一
(1990年、平成2年) |
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第二次世界大戦に敗北し、米ソ対立のなかで東西に分離したドイツの統一はドイツ人の悲願であった。
1985年にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフが、「改革」「情報公開」を推し進めると、東欧でも民主化への動きが活発化した。1989年5月、ハンガリーがオーストリアとの国境の鉄条網を撤去すると、東欧諸国を経て西ドイツに亡命する東ドイツ人が急増し、東ドイツ各地で民主化を要求するデモや集会が多発した。
こうした中で、1971年以来東ドイツに君臨したホーネッカー書記長が10月18日解任され、11月9日、冷戦の象徴であった「ベルリンの壁」の取り壊しが始まった。翌月、西ドイツのコール首相はドイツ統一に向けた10項目の提案を発表し、これを受けて、東ドイツのモドロウ首相も、統一ドイツの中立化を前提とした統一構想を提案した。
1990年2月訪ソ中のコール首相に対して、ゴルバチョフ最高会議議長(当時)がドイツ統一を原則的に承認することを声明し、ドイツ統一は急速に加速した。
同年10月3日、「ベルリンの壁」の開放から一年を経ずして、東ドイツが西ドイツに編入される形で東西ドイツは統一された。ヨーロッパ一の大国の誕生であったが、東ドイツを吸収したことによる失業問題など、新たな問題を抱えた。【「らてまが」
vol.09 掲載】 |
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| 10月10日 |
東京オリンピック開幕(1964年、昭和39年) |
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1964年(昭和39年)10月、第18回オリンピック大会が東京で開催された。
1959年に東京開催が決定すると、大会組織委員会が設置され、「アジアで初めて」というスローガンの下で大規模なオリンピックキャンペーンが繰り広げられた。オリンピック開催をめざして東海道新幹線や首都高速道路・名神高速道路などの交通網の整備が進み、中継放送を見るためにカラーテレビも普及した。その意味で、オリンピック開催は1960年代の日本の高度経済成長を象徴する出来事だった。
大会は10月10日から24日までの15日間おこなわれ、オリンピックとして初めて人工衛星によって世界に中継された。参加国はそれまでで最高の94ヵ国、参加選手は5586名を数えた。
この大会からバレーボールと柔道が正式種目となり、日本の女子バレーチームは「東洋の魔女」と異名を取った。日本はアメリカ・ソ連に次ぐ計29個(金メダル16個)のメダルを獲得した。 【「らてまが」
vol.09 掲載】 |
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| 10月12日 |
浅沼社会党委員長刺殺される(1960年、昭和35年) |
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1960年(昭和35年)10月12日、浅沼稲次郎日本社会党委員長が東京・日比谷公会堂で開かれた3党首立会演説会で、演説中、突然聴衆のなかから演壇にかけあがった若い男に短刀で左胸2ヵ所を刺され死亡した。
犯人は17才の右翼の少年。警視庁で取り調べののち、練馬の少年鑑別所に送られた少年は首吊り自殺し、事件の背後関係はうやむやになった。
浅沼は東京下町のアパート暮らしでその庶民性が多くの大衆に親しまれていた。この年は右翼のテロが相次ぎ、安保改定を強行した岸(前首相)も7月の池田新首相就任祝賀パーティーで暴漢に刺された。
浅沼委員長が短刀で刺される瞬間が、新聞写真として公開され、大きなショックを与えた。その後、この写真は、報道写真の優秀作に送られるピューリッツァー賞を受賞した。【「らてまが」
vol.09 掲載】 |
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| 10月15日 |
ゾルゲ事件発覚(1941年、昭和16年) |
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コミンテルンのスパイ、リヒャルト・ゾルゲは、近衛文麿のブレーンであった朝日新聞記者の尾崎秀実(ほつみ)らとともに日本の政治・軍事情報の収集を行ったが、これが発覚し、1941年(昭和16年)10月15日尾崎が逮捕され、18日ゾルゲも逮捕された。両名は1944年(昭和19年)11月処刑された。これをゾルゲ事件と呼ぶ。
ゾルゲは新聞記者として来日し、ナチ党員を騙って駐日ドイツ大使から絶大な信頼を獲得し、近衛文麿のブレーンを務めた尾崎から直接外交情報などを見聞し、それを分析しソ連に送っていた。
ゾルゲと尾崎は、尾崎が特派員として上海に滞在中に知り合い、尾崎の帰国後、諜報グループを組織していた。ゾルゲ事件の全貌は戦後になって初めて明らかになった。【「らてまが」
vol.09 掲載】 |
| 10月21日 |
学徒出陣(1943年、昭和18年) |
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軍部の独走が深まるにつれて、教育の場にも国体など日本精神を過度に強調する傾向が著しくなった。1940年(昭和15年)には「贅沢は敵だ」をスローガンにして学生の平日の映画鑑賞が禁止され、1941年4月小学校がドイツ式の「国民学校」に改められるなど、戦時という「非常時」に合わせた教育の再編成が進められた。
太平洋戦争が始まると、戦局の悪化にともなって労働力と兵力の確保が緊急課題となり、1943年6月「学徒戦時動員体制確立要項」が閣議で決定されて、1944年秋までには中学生以上のほとんどの生徒が軍需工場に通うことを義務付けられた(1945年には正式に授業中止命令が出た)。
こうしたなか、東条内閣は陸海軍の下級将校の不足を補うため、1943年10月理・工・医・教員養成以外の大学および高等・専門学校生徒の徴兵猶予を取り消し、10月21日、首相列席の下で、明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が挙行され、大半の文科系学生が入隊した。
これにより、敗戦までに約13万人の「学徒」(学生)が戦場に送られた。【「らてまが」
vol.10 掲載】 |
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| 10月23日 |
ハンガリー暴動
(1956年、昭和31年) |
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1956年2月の第20回ソ連共産党大会で、フルシチョフによるスターリン批判がおこなわれた。
ハンガリーでは、指導層のスターリン主義に対して知識人・労働者の批判が高まり、ついに首都ブダペストで1956年10月23日、共産党政権とソ連の支配に対して大規模な民衆蜂起が発生した。これを「ハンガリー暴動(事件)」という。原因は共産党政権がソ連の後ろ盾のもとに恐怖政治をしいたことと、無理な計画経済が国民の消費生活を圧迫したことであった。
ブダペストの暴動がおきるとソ連軍が鎮圧に出動した。新たに発足したナジ政権が事態の収拾に努め、ソ連軍もいったん撤退を約束したが、全国に革命委員会が形成され、政府や党機構が崩壊するのを見て再び本格介入した。これに先立ち、ソ連軍の動きに不安を感じたナジ首相はワルシャワ条約機構からの脱退と中立を宣言していたが、11月4日ソ連戦車部隊が侵攻し首都ブダペストは占領され、2週間の戦闘の後ハンガリー全土が制圧された。
ナジらはソ連軍に連行され、後に処刑された。暴動によって数千人が死亡し、約20万人が亡命、国民総生産の5分の1相当の財貨が失われた。こうしたソ連軍の介入は世界中から非難を浴びたが、同時期に起ったスエズ動乱の影響でその声も高まりを欠いた。しかし中国など一部社会主義国にはソ連モデルへの反省を促した。
なお、ハンガリー事件に先立つ同年6月には、ポーランドのポズナンでも自由化を求める反政府暴動がおきたが、新政権が国民に一定の自由を認めることで、ソ連軍の介入をみることなく危機をのりきった。【「らてまが」
vol.10 掲載】 |
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| 10月23日〜 |
第一次石油危機(1973年、昭和48年) |
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1973年(昭和48年)秋、OPEC(アラブ石油輸出国機構)の原油価格引上げと供給の削減によって、石油消費国は大きな経済的衝撃を受けた。これを第一次の「石油危機」、または「石油ショック」という。
同年10月に第四次中東戦争が起こると、石油供給国であるアラブ諸国は、敵国であるイスラエルを支持するアメリカ、日本、ヨーロッパ諸国に対して、原油の供給削減と2.12倍に及ぶ価格引上げを決定した。このため、10月23日にメジャーが原油価格の大幅値上げを通告し、石油危機が世界を襲った。
国内消費量のほとんどを輸入に依存し、その80%を中東にあおいでいた日本では、文字通り「ショック」となり、石油不足によって「物不足」が発生するという噂が飛び交い、トイレットペーパーや、砂糖、洗剤、醤油など日常品の買いだめなど、民衆の間にパニックが生じた。
翌1974年には実質経済成長率は、戦後初のマイナス成長を記録し、「高度成長」期は終わりを告げた。
石油危機の衝撃は大きかったが日本経済の立ち直りは比較的早く、1970年代後半には5%程の経済成長率にまで回復し、「安定成長」の時代を迎えた。【「らてまが」
vol.10 掲載】 |
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| 10月24日 |
世界恐慌(1929年、昭和4年) |
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1929年(昭和4年)10月24日ニューヨーク・ウォール街の株式取引所で、空前の大暴落が生じ、これを契機に全世界に大不況が広まった。これを「世界恐慌」と呼び、株価の大暴落が起こった10月24日は「暗黒の木曜日」と呼ばれた。
第一次世界大戦後のアメリカは、戦争で得た利潤を工業生産に振り向け、空前の繁栄を謳歌していたが、次第に、消費と生産のアンバランスが拡大し、購買力を上回る商品の過剰生産が、ついに恐慌を招いた。
アメリカの失業者は急増し(30年・400万人、32年・1250万人、33年・1500万人以上)、アメリカ資本に依存していたドイツやイギリス、日本も大不況となった。全ての資本主義国を巻き込んだ世界恐慌は、農業恐慌ともからみ合い、農産物価格の下落のため、アメリカでは多数の豚が殺され、穀物が燃料代わりに燃やされ、ブラジルではコーヒーが海に捨てられるといった具合であった。
アメリカではこの不況を打開するために、経済学者ケインズの学説に則った「ニューディール政策」がおこなわれ、大規模な公共投資が実施された。金本位制が崩壊し、世界の主要資本主義国は管理通貨制度に移行し、植民地を持つ国は「ブロック経済」を進展させた。海外市場の小さな日本やドイツは軍国化と侵略主義のファシズムへ向かった。
【「らてまが」 vol.10 掲載】 |
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| 10月26日 |
安重根、ハルビンで伊藤博文を射殺(1909年、明治42年) |
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日韓協約により韓国政府は完全な傀儡政権となり、農民や労働者も加わって抗日義兵運動は一層高まっていた。1908年(明治41年)には日本軍と義兵は451回にもわたって戦いをした。
こうした動きのなかで、1909年10月26日、三次にわたる日韓協約の強要の立役者である初代韓国統監であった伊藤博文が、日露交渉のために訪れたハルビンにおいて朝鮮の独立運動家・安重根に暗殺された。安重根は、1894年の甲午農民戦争では政府側にたって農民軍を弾圧したが、その後は愛国啓蒙運動や義兵運動に参加、伊藤の暗殺後まもなく処刑された。
しかし、こうした抗日の試みは日本軍の激しい弾圧を受け、日本の侵略の流れをとどめるには至らなかった。また、義兵運動には封建的な特権階級である「両班」出身の儒学者がリーダーとなって武装闘争を行なうという面があり、近代国家としての国権回復を重視する愛国啓蒙運動との間に考え方の違いがあった。これは反日運動の分裂を招いた。 【「らてまが」
vol.10 掲載】 |
| 11月02日 |
大リーグ選抜野球チーム(ベーブルースら)来日(1934年、昭和9年) |
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1934年(昭和9年)11月2日、ベーブ・ルースを主将とするアメリカ・大リーグ選抜野球チームが来日した。
第一戦は神宮球場で、東京倶楽部(巨人の前身)と対戦し、17対1で圧勝。その後約1ヵ月にわたり各地で全日本軍と対戦した。
なかでも11月20日静岡の草薙球場で行われた試合では、18才の沢村投手が6回まで大リーグ打線を封じ込め、ルースやゲーリックを三振にしとめる大活躍。7回にゲーリックに本塁打を浴び、1対0で惜敗したが、大リーガーも沢村の剛速球を絶賛した。
これを機に野球人気は高まり、12月大日本東京野球倶楽部が結成され、日本初のプロ野球チームが誕生した。【「らてまが」
vol.11 掲載】 |
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| 11月03日 |
湯川秀樹博士 日本初のノーベル賞受賞
(1949年、昭和24年) |
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1949年(昭和24年)11月3日、日本最初のノーベル賞(物理学賞)を湯川秀樹京大教授が受賞した。博士の受賞は敗戦で自信を失っていた人々に大きな希望を与えた。
湯川教授は1934年に原子核内の中間子の存在を予言する理論を発表したが、これが受賞の対象となった。
その後平和運動に尽力し、1955年には世界平和アピール7人委員会を結成し、核時代の科学者のあり方を問うた。【「らてまが」
vol.11 掲載】 |
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| 11月08日 |
ヒトラー、ミュンヘン一揆起こす(1923年、大正12年) |
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第一次世界大戦後のドイツは、巨額の賠償支払いに苦しみ、1923年には支払いの滞りからフランス・ベルギー両国がルール地方を占領し、これに対抗したストライキによってインフレが進行した。事態への対応をめぐってワイマール政府は激しく動揺し、また左右の政治勢力の対立も頂点に達した。
この機会をとらえて、1923年11月8日夜、オーストリア出身の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)党首のアドルフ・ヒトラーは、突撃隊(ナチスの直接行動隊)を率いてミュンヘン市中のビアホールに乗り込み、集会中のバイエルン州総督らを威嚇して、ベルリン進軍とヒトラー首班の右翼政府の樹立への協力を迫った。
クーデーターは翌日には軍によって鎮圧され、ヒトラーは逮捕、裁判で禁固刑に処せられた。ナチス党も一時解散状態となった。これをミュンヘン一揆という。
ヒトラーは獄中で『わが闘争』(Mein Kampf)を口述したが、これが後のナチスの聖典となった。
ヒトラーはこの事件を契機に、政権獲得のための大衆運動、議会を通しての「合法的」方針、最悪の場合でも軍を中立の立場におかせる必要性を学び、それが後のナチスによる政権獲得に反映された。【「らてまが」
vol.11 掲載】 |
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| 11月15日 |
『平民新聞』創刊(1903年、明治36年) |
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『平民新聞』は、社会主義団体「平民社」を主宰した幸徳秋水・堺利彦らが発行したもので、無産階級の代弁者として非軍備・反植民地主義を唱え、日露戦争時には反戦論を説きつづけた。1903年11月15日の創刊号は即日1万部を売ったといわれる。
翌1904年(明治37年)11月、『平民新聞』は創刊1周年を記念してマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』を掲載し、8000部を売ったものの即日発禁となり、翌年の1月29日、全紙赤刷りの64号で廃刊となった。1907年に日刊紙として再建されたが、これも3ヵ月で廃刊においこまれた。
【「らてまが」 vol.11 掲載】 |
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| 11月15日 |
保守合同なる(1955年、昭和30年) |
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1955年(昭和30年)2月の総選挙では、左右両派の社会党が議席を伸ばし、改憲阻止に必要な3分の1の議席を確保し、これに勢いを得て同年10月社会党は再統一を果たした。保守陣営は、これに危機感をたかめ、翌11月15日、対立していた自由党(吉田茂)と日本民主党(反吉田・鳩山一郎)の二大勢力が合同し、自由民主党(自民党)を結成した。これを保守合同という。
総選挙で社会党の勢力が増したことは、財界に対して、経済成長をつづける日本の労働者が、国際的に活気を増しつつある社会主義圏の影響をうけその闘争意欲を高めるという危機意識を与え、保守政党による安定政権の成立が強く望まれた。
こうした背景から、憲法改正や再軍備問題についての意見の違いを超えて、両政党の合同が成立した。初代総裁には鳩山一郎首相がついた。「保守合同」がなったことで、自民党が単独政権を組織し、社会党が野党第一党の地位を占める「55年体制」が成立した。
実質的に1993年(平成5年)まで続いたこの体制は、イデオロギー的には資本主義政党と社会主義政党との対立という性格があり、そこには冷戦構造の生み出した政治的なイデオロギーの対立が色濃く反映していた。 【「らてまが」
vol.11 掲載】 |
| 11月16日 |
日本最初のエントツ男(1930年、昭和5年) |
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1930年(昭和5年)11月16日、富士紡川崎工場の賃下げ・首切り反対ストで、争議団員の一人が煙突に登って演説をはじめ、日本最初のエントツ男が登場した。会社側は、この意表をつくスト戦術に対して、煙攻め・水攻めで応じたが、結局妥協が成立し、滞空130時間22分の珍記録をつくって引きおろされた。
エントツ男には見物人が殺到し、おでん屋もでるほどだった。これ以後エントツ男が流行した。【「らてまが」
vol.12 掲載】 |
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| 11月20日 |
大本営設置(1937年、昭和12年) |
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大本営は、天皇直属で、陸・海軍を統一的に管轄し戦争方針を決定する最高の統帥機関。1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件の勃発により日中戦争がはじまり、同年11月20日、日清・日露戦争についで3度目の大本営が宮中に設置された。大本営は、戦果について多くの虚偽報告を行い、後に「大本営発表」とは嘘の報告の代名詞となった。【「らてまが」
vol.12 掲載】 |
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| 11月22日 |
ケネディ大統領暗殺さる(1963年、昭和38年) |
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1963年(昭和38年)11月22日、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディは遊説先のテキサス州ダラスでパレード中に銃によって暗殺された。このニュースは初のテレビ衛星中継で日本へ伝えられ大きな衝撃を与えた。ケネディの死を受けて副大統領のジョンソンが大統領に昇格した。
この暗殺事件は容疑者オズワルドが公衆の面前で射殺されるなど、大きな謎を残した。ケネディは1960年に民主党から大統領に立候補し、共和党のニクソンを僅差で破って、アメリカ史上最年少かつ史上初のカトリック教徒として、アメリカ大統領に就任した。
彼の在任中は1962年のキューバ危機や、国内問題では人種問題・貧困問題・教育改革など困難な問題を解決しようとした。しかしヴェトナム戦争に介入し、戦争が泥沼化するもとを作った。「ニューフロンティア」政策を掲げ、大統領就任式では「国が皆さんのために何をなし得るのかを問うのではなく、皆さんが国のために何をなし得るのかを問うてほしい」と演説して、アメリカの威信の回復と国家への献身を国民に説いた。【「らてまが」
vol.12 掲載】 |
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| 11月25日 |
三島由紀夫 割腹自殺(1970年、昭和45年) |
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第二次大戦後、小説・戯曲・評論などで活躍していた三島由紀夫(本名・平岡公威)は、1970年(昭和45年)11月25日白昼、右翼団体「楯の会」の会員5名と、日本刀などで武装をして東京・市ヶ谷の自衛隊総監部に乗り込んだ。三島らはバルコニーから自衛隊員にクーデターを呼びかけ、「天皇陛下万歳」を唱えて割腹自殺した。
三島は、学習院中等科在学中に書いた『花ざかりの森』で早くから注目され、1947年に東大法学部を卒業したあと大蔵省に勤務したが、まもなく創作活動に専念するために辞職し、1949年に『仮面の告白』を世に出した。その後『金閣寺』(1956年))、『宴のあと』(1960年))など多くの作品を発表し、ノーベル文学賞候補にもなっていた。
三島は、次第に軍国主義的・天皇制至上主義的傾向を示すようになり、ともに自衛隊に乗り込んだ「楯の会」は1968年に結成された。連作『豊饒の海』(1965年〜1970年)が最後の作品となった。
【「らてまが」 vol.12 掲載】 |
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| 11月28日 |
鹿鳴館開館(1983年、明治16年) |
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1883年(明治16年)11月28日、東京日比谷に官営国際社交場として鹿鳴館がオープンした。イギリス人コンドルの設計による鹿鳴館は、建坪1330平方メートル、煉瓦(レンガ)造り、2階建。舞踏室、客室、食堂、喫煙室、奏楽室、玉突部屋、寝室などがあった。総工費18万円(当時)。
政府はここで内外の高官とその婦人による音楽会・舞踏会などを頻繁に開催し、風俗習慣の開化ぶりを内外に示すことで、条約改正交渉を有利に運ぼうとした。しかし、軽薄な欧化主義と軟弱外交という批判が高まり、1890年に閉館した。後に華族会館となった。 【「らてまが」
vol.12 掲載】 |
| 12月08日 |
真珠湾攻撃 太平洋戦争はじまる(1940年、昭和15年) |
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日中戦争の拡大と南進政策の展開、1940年(昭和15年)の日独伊三国同盟は、日米関係を悪化させた。アメリカは、対日輸出制限、国民党政府への援助強化、太平洋艦隊増強をおこなった。これに対して、日本の松岡洋右外相は日独伊三国同盟の結束を強調し、アメリカに対して強硬な姿勢で臨んだ。
その一方、日米開戦を避けるために野村吉三郎駐米大使とハル国務長官との間で日米交渉が進められていたが、1941年7月日本軍が南部仏印に進駐すると、これに対してアメリカは対日石油輸出の全面禁止で報復し、さらに緊張が高まった。
日本では同年10月近衛内閣に代わって陸軍の東条英機内閣が成立し、開戦派の声がさらに勢いをました。日本はハル・ノート(日本の中国・北部仏印からの撤兵、国民政府以外の中国政権の否認などを要求)を最後通牒と判断し、天皇臨席の「御前会議」を経て、同年12月8日宣戦布告と同時に、海軍(山本五十六が指揮)が、ハワイ、オアフ島の真珠湾基地にあったアメリカ太平洋艦隊を奇襲した(現地では12月7日)。こうして太平洋戦争が始まった。【「らてまが」
vol.13 掲載】 |
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| 12月09日 |
夏目漱石が死去
(1916年、大正5年) |
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1916年(大正5年)12月9日、日本近代文学の開拓者の一人として知られる夏目漱石(本名金之助)が死去した。享年49歳。
漱石は、雑誌『ホトトギス』に『坊っちゃん』『吾輩は猫である』を発表、1907年(明治40年)一高・東大教師から転身して朝日新聞社に入社したのちは、『三四郎』『それから』『こゝろ』などの名作を発表した。
第一次世界大戦が始まってから二年目に当たる1916年、漱石はそのころ日本に台頭しつつあった軍国主義に嫌悪感と批判を表明しながら、最後の未完の長編小説『明暗』を朝日新聞に連載していた。しかしその連載中の同年11月22日、胃潰瘍の発作が生じ、『明暗』の結末は永遠の謎となった。
漱石が開いていた「木曜会」には、その晩年、芥川龍之介・久米正雄・松岡譲等『新思潮』の同人たちが出入りして活躍を始めていた。【「らてまが」
vol.13 掲載】 |
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| 12月10日 |
三億円事件(1968年、昭和43年) |
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1968年(昭和43年)12月10日朝、東京都府中市の府中刑務所北側の路上で、日本信託銀行国分寺支店の現金輸送車が白バイ警官を装った若い男に襲われ、現金2億9430万7500円が車ごと奪われた。
犯行現場は刑務所の高い塀(写真右側)に沿った人通りの少ない道路で、犯人は「車に爆弾が仕掛けられたと連絡があったので調べる」と現金輸送車に乗っていた4人を降ろしたあと、車の下を探すふりをして発煙筒をたき、そのすきに車に乗り込んで走り去った。現金輸送車は東芝府中工場従業員のボーナスを運んでいるところであった。この日は歳末警戒初日であり、警察はすぐさま都内全域に捜査の網を張りめぐらせて犯人を追ったが、車は発見されたものの現金はすでに持ち去られていた。
被害額の多さと大胆不敵な犯行手口は、世間を大いに騒がせた。警察はその威信をかけて延べ17万人の捜査員を投入したが、そのかいもなく1975年12月10日に公訴時効が成立。1988年には民事面での時効も成立し、事件はとうとう迷宮入りした。【「らてまが」
vol.13 掲載】 |
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| 12月14日 |
金輸出再禁止で株価暴騰(1931年、昭和6年) |
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世界恐慌の嵐が吹き荒れるなかで、1931年9月ドイツの経済破綻がもとで、イギリスが金本位制を停止し世界に大きな衝撃を与えた。日本は1930年(昭和5年)1月に金本位制に復帰したばかりだったが、恐慌のあおりをまともにうけ、不況はさらに深刻なものになった。
そのうえ1931年9月には満州事変がおこり、政府は、戦費の捻出と不況対策のふたつに直面することになった。1931年12月13日蔵相に就任した高橋是清は、金輸出の再禁止、積極財政への転換を決定し、翌14日金本位制を停止した。このため為替相場は暴落し、株価が暴騰した。
【「らてまが」 vol.13 掲載】 |
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| 12月14日 |
在日朝鮮人帰還はじまる(1959年、昭和34年) |
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戦前から日本に出稼ぎに来たり、または強制連行で重労働につかされていた朝鮮人は、1945年(昭和20年)以降も日本に留まるものも多かった。しかし、「祖国」が、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に分断され、朝鮮戦争がおきると、在日朝鮮人も大きく二つの国に引き裂かれた。
1953年、朝鮮戦争が終結する前後から、在日朝鮮人のなかに北朝鮮への帰還希望者が出はじめ、1955年に在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が結成され、北朝鮮の再建への参加など帰国運動が組織され、多くの帰国希望者が登録された。
日本政府は1959年2月閣議で帰還を了承し、同年8月、インドのカルカッタで日本赤十字社と北朝鮮との間で「在日朝鮮人帰還協定」が締結され、その第一陣が同年12月14日、新潟港から出港した。1967年11月までに155回、計8万8611人が帰国した。その後いったん打ち切りとなり、1972年に再開され1980年まで行われた。 【「らてまが」
vol.13 掲載】 |
| 12月17日 |
ライト兄弟初飛行(1903年、明治36年) |
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アメリカのライト兄弟は、1903年12月17日、ノース・カロライナ州キティホークで、初めて動力付きの飛行機を飛ばすことに成功した。4回の飛行を行い、最高記録は59秒間/260mだった。
これに刺激を受けて研究熱は一気に高まり、1909年7月にはフランスのL.ブレリオがイギリス海峡(36km)を横断、フランスがアメリカをおい抜いて飛行機先進国に躍り出た。単葉、複葉、三葉、プロペラの位置が機首、座席の後ろなど多様な形の飛行機が登場し、第一次世界大戦には戦闘機として使われるまでになった。【「らてまが」
vol.14 掲載】 |
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| 12月18日 |
東京駅が完成(1914年、大正3年) |
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1914年(大正3年)12月18日、ルネサンス式の赤煉瓦三階建ての東京駅が完成した。東洋一の規模であった。
東京駅の建設は、1887年(明治20年)頃から提唱され、1896年には議会で可決されたが、日露戦争や不況でなかなか進まず、1908年になってようやく本格的工事が始められた。6年の歳月をかけて1914年(大正3年)に開業、東海道線の起点となった。
駅はルネサンス様式による左右対称の美しく、しっかりとした構成で、設計者辰野金吾の堅実な手法と、明治期の西洋様式建築の頂点を示している。開業当日には、同年夏に始まった第一次世界大戦で、ドイツの根拠地・青島を攻略した日本軍が凱旋した。【「らてまが」
vol.14 掲載】 |
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| 12月18日 |
国連加盟(1956年、昭和31年) |
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1956年(昭和31年)12月18日、国連総会において日本の国連加盟が全会一致で可決された。これにより日本は80番目の加盟国となった。
1952年にサンフランシスコ平和条約の発効で独立を達成した日本は、その直後から、国際社会への復帰を目指して何度も国連加盟を申請したが、ソ連との間に平和条約が結ばれていなかったため、その都度ソ連の拒否権にあい実現しないでいた。
1956年10月、鳩山一郎首相は、それまでのアメリカよりの外交姿勢を修正して自主外交路線を重視し、日ソの平和条約の締結と国交回復のためモスクワを訪問、日ソ国交回復に関する共同宣言と通商議定書に調印した(北方領土をめぐる対立や日米安保条約へのソ連の反発から、平和条約は締結されなかった)。これによって、ようやくソ連の支持を得た日本は、同年12月18日国連安全保障理事会において国連加盟を認められた。【「らてまが」
vol.14 掲載】 |
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| 12月25日 |
ソ連消滅 ゴルバチョフ大統領辞任(1991年、平成3年) |
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1985年ソ連共産党書記長となったゴルバチョフは、「ペレストロイカ(改革)」「グラスノスチ(情報公開)」を掲げて、ソ連の改革に取り組んだ。
これを追い風に東側諸国の民主化は加速し、1989年11月には「ベルリンの壁」が崩壊、12月にはマルタ会談で米・ソ両首脳が東西冷戦の終結を宣言した。ソ連邦内でも、民族主義(主権)の要求が高まり、リトアニア・エストニアでは複数政党制が採用され、ゴルバチョフは社会主義を国名から外した新連邦条約案を提出した。
これに対して保守派は危機感を抱き1991年8月クーデターを起こしたが、ロシア共和国大統領エリツィンの介入で失敗に帰し、ソ連共産党は解体に追い込まれ、1917年のロシア革命以来74年間続いてきた社会主義体制は崩壊した。
同年9月にはエストニア・ラトヴィア・リトアニアのバルト三国が独立し、ソヴィエト連邦内の残りの12共和国も相次いで独立ないし主権を宣言した。ゴルバチョフは新連邦条約を発効させ連邦再編を試みたが、それも挫折し、同年12月、ロシア・ウクライナ・ベラルーシのスラヴ系三共和国がソ連の消滅を宣言、バルト三国とグルジアを除く11ヵ国が独立国家共同体(CIS)を組織した(グルジアは1993年にCISに加盟)。
これを受けてゴルバチョフは12月25日テレビで正式にソ連大統領辞任を表明し、名実ともソ連は消滅した。 【「らてまが」
vol.14 掲載】 |
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| 12月30日 |
地下鉄開通(1927年、昭和2年) |
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日本の地下鉄の歴史は、東京市内外交通調査委員会が1919年(大正8年)に発表した調査計画書に始まる。その後、1920年(大正9年)8月29日に東京地下鉄道会社が設立され、1925年(大正14年)から着工、1927年(昭和2年)12月30日に日本初の地下鉄が開通した。この地下鉄は、上野−浅草間2.2Kmを最小運転間隔3分、電車1両編成で往復運転。「東洋唯一の地下鉄道」という宣伝文句と、自動改札、自動ドア、自動列車停止装置などの最新設備で注目を浴び、交通機関近代化のはしりとなった。1934年には上野−新橋間に延長され、1939年には東京高速鉄道会社によって新橋−渋谷間が開通した。1941年に両社の路線は、帝都高速度交通営団に引き継がれた(現在の営団銀座線)。いっぽう大阪では1933年に梅田−心斎橋間3.1kmが開通。第ニ次大戦前に開通していた地下鉄は東京・大阪のこの2路線だけであった。 【「らてまが」
vol.14 掲載】 |
| 1月1日 |
キューバ革命(1959年、昭和34年) |
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1959年1月1日、フィデル・カストロの指揮するキューバ革命軍がハバナを占領し、ラテンアメリカにはじめて社会主義政権が誕生した。革命前のキューバは、バティスタ独裁政権の下で、外国資本と大地主の支配に苦しめられていたが、カストロはゲバラらとともに反政府軍を組織しゲリラ戦を展開し、しだいに農民の支持を集め、革命を成功へと導いた。
革命後2月に首相となったカストロは農地改革、大企業の国有化など、社会主義政策を実施し、対外的にはソ連と接近し、アメリカの在キューバ資産を接収したことからアメリカと激しく対立した。これが後の1962年のキューバ危機へとつながった。 |
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| 1月5日 |
スパルタクス団の蜂起(1919年、大正8年) |
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1916年、第一次世界大戦下のドイツで、後のドイツ共産党の前身となる急進的革命組織スパルタクス団が、ドイツ社会民主党左派のカール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルクらによって結成された。彼らは社会民主党幹部の戦争協力方針に反対し、革命による労働者階級の権力奪取を主張した。
1917年、社会民主党内の反戦派が結成した独立社会民主党に参加し、その最左派となった。1918年ドイツが第一次世界大戦に敗北し十一月革命が起こると、評議会共和制の樹立を目指して活動し、同年12月から翌19年1月にかけて、スパルタクス団が母体となってドイツ共産党が結成された。
1919年1月5日ベルリンで武装蜂起を企てたが、社会民主党政府と軍部によって鎮圧され、1月15日、蜂起を指導したカール・リープクネヒトのほか、時期尚早として武装蜂起に反対したローザ・ルクセンブルクも虐殺された。 |
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| 1月10日 |
国際連盟成立(1920年、大正9年) |
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1920年1月10日第一次世界大戦の対ドイツ講和条約と国際連盟が正式に発効した。
国際連盟はアメリカ大統領ウィルソンの提唱で設立された、史上初の国際政治機構かつ国際的安全保障機構。 1918年1月にウィルソンが発表した、大戦終結のための平和原則14ヵ条に基づいている。総会・理事会・事務局を中心に、多くの補助機関と常設国際司法裁判所と国際労働機構の2外部機関から構成。平和維持と国際紛争の平和的解決、戦争原因の除去、全ての面での国際協調の組織化などを目的とする。
アメリカの不参加、ソ連・ドイツが発足当初には不参加であったこと、英仏の主導、各国1票で全会一致の原則、制裁規定の不明確などの欠点はあったが、戦後の国際協調の中核となった。第二次世界大戦後、国際連合が組織されると、46年連盟は自然解消し、その財産は国際連合に継承された。 |
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| 1月11日 |
金解禁(1930年、昭和5年) |
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金解禁とは、金の輸出禁止を解除し、金本位制(一定量の金の価値と、その国の貨幣制度の基礎となる本位貨幣の価値を同じにすること)に復帰すること。第一次世界大戦の後、欧米各国が金の輸出禁止を解除して金本位制に復帰すると、日本でも金の輸出解禁によって為替の安定を保ちながら1920年(大正9年)以降の不況を脱すると同時に、国際的な競争力をつけていく必要が論じられた。しかし、中国への借款のための金を準備する必要があり、また、関東大震災による輸入超過や金融恐慌の発生などによって、金解禁は見送られていた。
1929年(昭和4年)に成立した立憲民政党の浜口雄幸内閣は、井上準之助を大蔵大臣として金解禁の準備を進め、解禁の衝撃を和らげるための緊縮財政と産業合理化を行い、1930年1月に金輸出禁止の大蔵省令を廃し、金解禁を実施した。だが、金解禁は2年間に7億円の正貨を海外に流出させただけで何の成果も得られなかった。
1929年から始まった世界大恐慌や前年比10%高の円高により貿易は不振に陥り、かえって日本経済は今までにない危機を迎えた。さらに1931年9月、ドイツの経済破綻がもとでイギリスは金本位制を停止し、世界経済に大きな影響を与えた。同月の満州事変の影響もあって円売りドル買いが発生し、同年12月、犬養毅内閣は成立と同時に金輸出を再び禁止し、また金兌換も停止して、金本位制を停止した。そのため円為替は暴落し、株価は暴騰した。しかし財閥銀行や商社は為替差益で大もうけした。
このことが右翼や軍部の攻撃の的となり、1932年、井上準之助らが暗殺される血盟団事件へとつながった。 |
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| 1月17日 |
禁酒法施行される(1920年、大正9年) |
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アメリカにおける禁酒運動は、プロテスタントの考え方に基づいてつくられた宗教的色彩の強い禁酒運動団体の主導のもとに、19世紀から行われていた。
20世紀に入ると禁酒運動の声が急速に高まり、半分ほどの州が禁酒となっていた中、連邦法としての禁酒法が1919年に成立し、1920年1月17日からアメリカ全土で実施されることになった。禁酒法制定の背景には、飲酒の健康的・社会的弊害を減らすことのほかに、工場における労働者の規律をただし、生産能率の向上をはかる意図も含まれていたといわれる。
禁酒法は酒の製造・販売・運送を禁じたものであって飲酒そのものを禁じたわけではなかったが、法の目をかいくぐって密造、密売で大儲けするアル・カポネのような「ギャング」を太らせるなど、アメリカ社会にさまざまな悪影響を与えた。1930年代に入ると禁酒法反対運動が盛んになり、1933年、議会は禁酒法を廃止。「高貴な実験」と呼ばれた禁酒法は、酒を禁ずることの難しさを世界に知らしめるだけの結果に終わった。 |
| 1月17日 |
湾岸戦争おこる(1991年、平成3年) |
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1990年8月、イラク軍はクウェートに侵攻して全土を制圧し、併合を宣言した(湾岸危機)。これに対して、アメリカを中心とした28ヵ国で形成された多国籍軍が、国連安全保障理事会の決議にもとづき、クウェートからイラク軍を撤退させるため武力行使を行った。
1991年1月17日、多国籍軍はイラクを空爆し湾岸戦争が始まった。イラクはミサイルで応戦したが、多国籍軍はイラクの軍事施設を空爆して打撃を与え、2月には地上戦にも突入した。2月27日多国籍軍がクウェートを制圧し戦闘は終結し、停戦協定が結ばれた。
湾岸戦争は、ハイテク兵器の使用やテレビゲームのようなピン・ポイント爆撃の解説など、ハイテク戦争の到来を告げるものであった。 【「らてまが」
vol.15 掲載】 |
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| 1月22日 |
血の日曜日事件(1905年、明治38年) |
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日露戦争中の1905年1月22日(ロシア暦1月9日)、ロシアの首都ペテルブルクで、生活難にあえぐ民衆が修道士ガポンに率いられ、労働者の待遇改善、戦争の即時停止、立憲政治実施などを訴える皇帝(ツァーリ)への請願デモを行った。これに対して軍隊が冬宮前広場や街頭で発砲し2000名を超える死傷者(死者は1000人以上)が出た。これを血の日曜日事件という。
事件は全国に憤激を呼び起こし、各地で都市労働者を主体に暴動が発生し、第一革命へと進展した。6月には軍隊の反乱も起こり、日露戦争の継続が困難となった。政府は日本と講和し、自由主義者の要求もあって国会を開設した。
この事件をきっかけに労働者の素朴な皇帝信仰が破られ、その政治意識の転換点となった。1917年のロシア革命の前段階として大きな意味を持つ事件。【「らてまが」
vol.15 掲載】 |
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| 1月24日 |
横井庄一元軍曹 グアムで救出(1972年、昭和47年) |
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グアム島アガナ南方で、1972年(昭和47年)1月24日、もと日本兵の横井庄一軍曹が現地の漁師によって発見され、大きなニュースとなった。横井さんは終戦後28年間その事を知らず、孤独なジャングル生活を続けていた。横井さんは生活の道具も全て手製でまかない、28年間木の実と魚で生き延びた。
「恥ずかしながら、横井、天皇陛下に小銃を返すために戻ってまいりました」という帰国後の第一声は「恥ずかしながら」という流行語を生んだ。【「らてまが」
vol.15 掲載】 |
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| 1月28日 |
南極の白瀬矗(のぶ)隊 引き返す(1912年、明治44年) |
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1911年(明治44年)末、人類未到の南極点を目指して、ノルウェーのアムンゼン隊、イギリスのスコット隊、日本の白瀬隊がしのぎを削ったが、結局アムンゼン隊が12月24日に一番乗りをした。スコット隊はアムンゼン隊より35日遅れて南極点に到着したが帰路で遭難し、全員が死亡するという悲劇が起こった。
白瀬隊は結局南極点にたどり着くのを断念し、1912年1月28日、南緯80度5分で引き返した。白瀬は引き返し地点を「大和雪原」と名付けた。この探検は「一等国民の意気を世界に示す快挙」として国民を熱狂させた。しかし白瀬は帰国後不遇で、南極探検の講演をしながら借金を返済する日々を送った。【「らてまが」
vol.15 掲載】 |
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| 1月31日 |
二・一ゼネストに中止命令(1947年、昭和22年) |
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1947年(昭和22年)2月1日を期して、国鉄・郵便局をはじめとする全官公庁労働者を中心にゼネストが決行されようとしていた。しかしその前日、連合国軍最高司令官のマッカーサーの命令により中止を余儀なくされた。
戦後はインフレーションと、「労働組合法」などGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による労働者の権利拡大という条件に支えられ、労働運動はかつてない盛り上がりを見せた。1946年の民間企業の労働運動の盛り上がりを引き継ぐ形で公務員の労働運動が活発化し、260万人もの全官公庁労働組合共同闘争委員会(議長・伊井弥四郎)が結成され、最低生活費を保障する賃上げを要求した。
当時首相であった吉田茂は、1947年の年頭の放送で、労働者を「不逞(ふてい)のやから」とののしる発言をし、政府と労働者の対立はいっそう深刻となった。これに反発した各労働団体は2月1日午前零時から全国的に無期限ストライキに突入することを計画した(「二・一ゼネスト」)が、前日の1月31日午後2時30分、GHQのマッカーサー最高司令官がその中止を指令。同日午後9時20分、伊井弥四郎・全官公庁共闘議長は、ラジオ放送でマッカーサーの命令書を読み上げ、涙まじりに全国の労働者にスト中止を語りかけ、「全国の労働者、農民バンザイ。われわれは団結せねばならない」と結んだ。工場や職場に詰めていた労働者はこの放送を泣きながら聞いた。
ゼネストは不発に終わったが、給与水準は平均二倍に上げられ、同年4月には「労働基準法」が公布された。【「らてまが」
vol.15 掲載】 |
| 2月4日 |
ヤルタ会談はじまる(1945年、昭和20年) |
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1945年2月、クリミア半島のヤルタで、アメリカ大統領ローズヴェルト、ソ連首相スターリン、イギリス首相チャーチルによる米英ソの首脳会談が開かれ、戦後の世界機構や、ドイツの降伏後の戦後処理について話し合われた。
世界機構については、大国の拒否権、国際連合会議の開催、ドイツの戦後処理については、分割占領方式の採用やフランスの参加などで合意を得た。
また極東問題に関して、スターリンが、南樺太、千島、満州の権益とひきかえに、対日参戦することを約するなど、この会談では、戦後の国際秩序の形成に重要な意味をもつ取り決めがなされた。【「らてまが」
vol.16 掲載】 |
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| 2月6日 |
第11回冬季五輪札幌大会
70メートル級ジャンプ金銀銅独占(1972年、昭和47年) |
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1972年(昭和47年)2月、アジアで最初の冬季オリンピック・第11回大会が札幌で開催された。札幌オリンピックには35ヵ国が参加、11日間にわたって熱戦と華麗な演技が披露された。
ハイライトは4日目の宮の森シャンツェで行なわれた70メートル級ジャンプ。これまで一度も冬のオリンピックで金メダルをとったことのない日本が金・銀・銅のメダルを独占した。メダル獲得者は、金の笠谷、銀の金野、銅の青地の三選手。70メートル級ジャンプはこのように日本勢が制したが、90メートル級は不振に終わった。札幌オリンピックでメダルを獲得したのはこの種目だけだった。【「らてまが」
vol.16 掲載】 |
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| 2月7日 |
ヴェトナム戦争
「北爆」開始(1965年、昭和40年) |
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1965年2月7日、アメリカ軍による北ヴェトナム爆撃(「北爆」)が開始された。北爆は、南ヴェトナム解放民族戦線を支援する北ヴェトナムに打撃を加え、戦争の早期決着を意図したものだが、かえってヴェトナム人民の抵抗を強め、また、残虐性を増す米軍に対して、全世界で反米・反戦運動がひろがった。
北爆は最初、北緯19度線付近までを範囲としたが、6月29日には首都ハノイ・ハイフォン地区の石油貯蔵施設の爆撃までしだいにエスカレートした。【「らてまが」
vol.16 掲載】 |
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| 2月11日 |
大正政変(第一次護憲運動)(1913年、大正2年) |
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日露戦争後、長州閥の桂太郎と立憲政友会総裁の西園寺公望が交互に政権を担当していた(桂園時代)。
1911年からは西園寺が第二次内閣を組織した。西園寺は、日露戦争以来の逼迫する財政の整理を第一に掲げたが、韓国併合で中国への足がかりを得た陸軍は、朝鮮への二個師団増設を主張し、この対立から翌1912年(大正元年)西園寺内閣は総辞職した。
これに代わって成立した桂内閣(第三次)は、山県有朋系の官僚閥と結びついて、二個師団増設を強引にすすめたため、ジャーナリズムをはじめ世論の反感が高まり、立憲政友会の尾崎行雄・立憲国民党の犬養毅らが参加して憲政擁護会を組織し、「閥族打破、憲政擁護」をスローガンとする第一次護憲運動を起こした。
1913年2月には運動は実業家たちをも巻き込み最高潮に達した。こうして、数万の群衆が国会を取り囲むなかで、政友会・国民党より内閣不信任案が提出され、桂は天皇にその撤回を命じる勅語を出させて抵抗したが、群衆と警官隊との衝突から、政府系新聞社、警察などが焼き打ちされる事態にまで発展した(2月10日)。
群衆の革命化をおそれた桂内閣は翌11日総辞職した(大正政変)。第一次護憲運動は、運動の参加者たちが藩閥への批判を行った点で画期的であり、「大正デモクラシー」の出発点となった。【「らてまが」
vol.16 掲載】 |
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| 2月14日 |
円の変動相場制はじまる(1973年、昭和48年) |
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1971年(昭和46年)8月のドル・ショック(ニクソン・ショック)によって、日本を含む主要国はドルを基軸通貨とする固定相場制から変動相場制に移行したが、同年12月、為替の安定をはかるために、主要10ヵ国の蔵相がアメリカのスミソニアン博物館で会談し、ドルの切り下げを含む新しい固定相場制の採用に合意した。このとき日本円は1ドル=308円に切り上げられた。しかし、この固定相場制も長くはつづかなかった。
1973年(昭和48年)2月、再びドルの10%切り下げが発表され、通貨危機がおこると、各国はスミソニアン合意を放棄して変動相場制へと移行した。これ以降、米ドルに対する日本円の価値は急速に上昇した。
変動相場制は、常に同じレートで交換される固定相場制と異なり、外国為替市場の需要と供給の関係でその都度為替の交換比率が決定される仕組み。【「らてまが」
vol.16 掲載】 |
| 2月17日 |
死なう団 示威行進(1937年、昭和12年) |
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1937年(昭和12年)2月17日、5人の若い男性がほぼ同時刻「死のう、死のう」と叫びながら東京の皇居前、警視庁前、外務次官官舎前など都内五ヶ所でビラをまきつつ割腹自殺を図るという事件が発生した。これを「死のう団」事件という。彼らは日蓮宗の改革を叫ぶ江川桜堂(本名忠治)を盟主と仰ぐ集団で、過激な言動から何度も警察と衝突を繰り返していた。
翌38年(昭和13年)3月、盟主の江川が死ぬと5人の男女会員が後追い自殺を図り再び話題となった。 【「らてまが」
vol.17 掲載】 |
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| 2月19日 |
連合赤軍 浅間山荘事件おこる(1972年、昭和47年) |
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1969年(昭和44年)に結成された赤軍派(共産主義者同盟赤軍派)は、1970年に日航機よど号ハイジャック事件を起こした後、京浜安保共闘と合流して連合赤軍を結成した。
1972年、連合赤軍最高幹部の永田洋子と森恒夫が逮捕されたが、その二日後の2月19日、同軍の坂東国男ら5人が軽井沢の浅間山荘で管理人の妻を人質にとってたてこもった。以後10日間、銃撃戦を繰り広げた末、警察は強行突破し犯人を逮捕した。この様子はテレビで同時中継され、全国に衝撃をあたえた。
この事件で、警官2名が死亡し、13人が重軽傷を負い、坂東の父親は自殺した。一方、群馬県の妙義山でメンバー12人の遺体が発見され、リンチ殺人が行われていたことも発覚した。その後、森は自殺し、永田らに対しては1993年(平成5年)に最高裁で死刑が確定した。
連合赤軍の過激な活動は、新左翼過激派がたどった典型的な事態として、世間に恐怖を与えるものであった。 【「らてまが」
vol.17 掲載】 |
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| 2月20日 |
日本初の普通選挙実施(1928年、昭和3年) |
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1925年(大正14年)、納税額による選挙権制限が撤廃され、25歳以上の男子に選挙権を与える「普通選挙法」が成立した。
1928年(昭和3年)2月20日の衆議院総選挙は普通選挙法成立後初のもので、全国で約1000万人が投票した。その結果、与党・立憲政友会が217議席、野党・立憲民政党は216議席を獲得。総得票数では民政党が政友会を上回った。社会民衆党や労農党などの無産政党からは、政府が行った無産政党に対する選挙妨害にもかかわらず、8人の当選者が出た。
【「らてまが」 vol.17 掲載】 |
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| 2月25日 |
アキノ、フィリピン大統領就任(1986年、昭和61年) |
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1986年2月、フィリピンのマルコス政権が崩壊し、アキノが大統領に就任した。
マルコス前大統領は、長年の独裁と不正蓄財に対する批判が高まるなか、選挙によって批判をかわそうとした。反マルコス陣営は、3年前に暗殺されたベニグノ・アキノ元上院議員の夫人コラソン・アキノを擁立し対抗した。2月7日選挙が実施され、マルコスが再選された。しかし中央選管の発表と民間の選挙監視団体との開票結果は大きく異なり、不正選挙の批判が高まった。国会はマルコスの4選を宣言したが、反マルコス運動は激化し、国防軍もアキノ支持に転じ、2月25日アキノを大統領とする臨時政府が樹立された。マルコス夫妻は翌朝ハワイへ亡命した。
この一連の出来事は「二月革命」または「ピープル・パワー革命」と呼ばれる。【「らてまが」
vol.17 掲載】 |
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| 2月26日 |
二・二六事件(1936年、昭和11年) |
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1936年(昭和11年)2月26日未明、安藤輝三大尉らの青年将校に率いられた1400名の部隊が首相官邸などを襲い、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監らを殺害、政府中枢を占拠した。
青年将校らは、陸軍首脳に「蹶起趣意書」を示し、荒木貞夫ら陸軍「皇道派」(天皇親政と直接行動による国家改造を主張していた)による軍部独裁政権を成立させようとした。青年将校らの思想的な背景には、クーデターと戒厳令による国家改造を主張する北一輝の考えがあった。
このクーデターにより一時「戒厳令」がしかれたが、結局鎮圧され、幹部17名は北一輝・西田税とともに死刑となった。事件後、陸軍の「皇道派」は軍から排除されたが、軍部の主流を占める「統制派」はかえって政治支配を強化し、総力戦へ向けて思想・社会を全面的に統制しようとした。
事件後の3月に成立した広田弘毅内閣は、「統制派」の要求に基づいて軍部大臣現役武官制を復活し、華北への侵略政策を強化し、さらに東南アジアへの侵略を決定するなど、合法的なやりかたでファシズムへの道を進めた。【「らてまが」
vol.17 掲載】 |
| 3月1日 |
三・一運動(1919年、大正8年) |
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朝鮮では日本の植民地となってからも国内外の独立運動グループが活動を展開していた
。1919年(大正8年)3月1日、京城で、天道教・キリスト教・仏教団体の幹部など33人が署名した独立宣言が発表され、ちょうどその日高宗(元国王)の葬儀に集まっていた民衆がこれに呼応し、独立万歳をさけびながら行進した(万歳事件)。
この運動は、武断政治や土地調査事業などへの不満を背景にして、民族運動へと発展し、階層・宗教・思想を越えた民族自決と共和政を目指した。日本は武力で鎮圧し、死者は7500人に及んだ。
国内の運動に呼応して、同年4月李承晩を中心に上海に大韓民国臨時政府が成立し、また間島地方の武装闘争も活性化した。運動は中国の民族運動にも刺激を与え、同年5月の五・四運動につながった。
この後、原内閣は植民地支配の方法を武断統治から弾圧と懐柔をおりまぜた「文化統治」へと転換せざるを得なかった。しかし、民族自治を認めない差別的統治は、日本の帝国意識に支えられながら継続し、30・40年代には朝鮮語禁止・創氏改名などの皇民化政策が徹底された。 【「らてまが」
vol.18 掲載】 |
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| 3月1日 |
NHK放送スタジオ始まる(1925年、大正14年) |
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1925年(大正14年)3月1日東京放送局が仮放送をはじめた。同年7月から本放送開始。翌年、大阪・名古屋にも放送局が開局し、あわせて日本放送協会(今日のNHKの母体)が成立した。
1951年(昭和26年)に、民間放送の中部日本放送、新日本放送(現毎日放送)が開局するまでは、ラジオ局はNHKしか存在しなかった。
開局当初は、ラジオドラマや音楽が番組の中心だった。臨時ニュースの第一号は、1931年9月19日、前日の満州事変勃発を伝えるニュースだった。 【「らてまが」
vol.18 掲載】 |
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| 3月9-10日 |
東京大空襲(1945年、昭和20年) |
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1944年(昭和19年)11月24日、B29約80機による東京空襲以来、ほぼ連日、日本の軍事施設・軍需工場が空襲をうけた。
しかし、1945年3月9日夜半、東京を襲ったB29約300機の大編隊は、無差別ジュウタン爆撃によって東京を火の海に陥れた。木造家屋はすべて焼けて、コンクリートの建物の残骸だけが残った。23万戸が焼失し、12万人の死者が出た。
アメリカ軍は住宅密集地に火災を目的とした焼夷弾を大量に投下し、一般国民の殺傷により国民の戦意喪失を企図したといわれ、戦争の性格を一変させた。 【「らてまが」
vol.18 掲載】 |
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| 3月10日 |
小野田元少尉 ルバング島で救出(1974年、昭和49年) |
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戦時中「残地諜者(ちょうしゃ)」という使命を帯びてフィリピンのルバング島に30年間隠れていた小野田寛郎元陸軍少尉は、1974年(昭和49年)3月に「説得」に応じて「投降」した。
1972年(昭和47年)に、小塚金七元一等兵と逃亡中の所を地元警察に発見され、その際の銃撃戦で小塚一等兵は死亡し、残る小野田元少尉の探索と救助が進められていた。
小野田元少尉は陸軍中野学校でスパイとして特殊な教育を受けた人物で、再三の投降の呼びかけも拒否した。そのため元上官が現地に赴き、小野田元少尉に直接「投降命令」を下すことでようやく「降伏」した。
小野田元少尉の不屈の軍人精神は、1972年にグアム島で発見された横井庄一元陸軍軍曹の事件と並んで、国民に深い衝撃を与えた。 【「らてまが」
vol.18 掲載】 |
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| 3月13日 |
ドイツ、オーストリア併合(1938年、昭和13年) |
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第一次世界大戦後ヴェルサイユ条約及びサン・ジェルマン条約によりドイツとオーストリアの合邦は禁止されていたが、ヒトラーは早くから合邦を唱え、政権獲得後は積極的にこの目標を追求、様々な策を用いていた。
1938年3月、ヒトラーはイギリス・フランス・ハンガリーの反対を排し、オーストリア=ナチスにオーストリア国内を内乱状態にさせ、12日ドイツ軍隊を侵入させて、13日ドイツ・オーストリア両国の併合を強行した。
“英仏は干渉せず”というヒトラーの予想が当たり、英仏は事実上この合邦を黙認し、干渉必至として反対した国防軍の威信は低下した。イタリアもドイツのこの行動を黙認し、ヒトラーから感謝された。
ヒトラーの対外侵略の最初の重要な事件であり、その後の領土取得の序盤となった。 【「らてまが」
vol.18 掲載】 |
| 3月20日 |
地下鉄サリン事件おこる(1995年、平成7年) |
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1995年(平成7年)3月20日午前8時すぎ、東京都千代田区の営団地下鉄霞ヶ関駅を通過する日比谷線・千代田線・丸の内線の3路線5本の電車で、ばらまかれた毒ガス「サリン」を吸いこんだ通勤客や駅員など計11人が死亡、約5500人の重軽傷者が出るという大惨事が発生した。
やがて、この「サリン」のばらまきは麻原彰晃を中心としたオウム真理教による無差別テロであることが判明した。
オウム真理教は同年2月28日に拉致監禁致死事件を起こしており、警視庁の教団への捜査を攪乱するために警視庁の最寄り駅・霞ヶ関への出勤時間帯を狙ったのではないかと見られている。
取り調べの過程で、1989年11月の坂本弁護士一家誘拐事件や、1994年6月に長野県松本市の住宅街で起こったサリン発生事件も、オウム真理教グループの犯行であることが判明した。
このような、教団による一連の組織的かつ悪質な犯罪は、社会に大きな衝撃と不安を与えた。 【「らてまが」
vol.19 掲載】 |
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| 3月28日 |
国際連盟脱退を通告(1933年、昭和8年) |
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中国国民政府は満州事変の不当性を国際連盟に提訴した。
1931年12月連盟はイギリスのリットン卿を団長とする調査団の派遣を決定し、翌1932年(昭和7年)2月現地調査を開始した。一方、関東軍は同年3月「満洲国」を建国し、日本政府もリットン報告書の正式提出の前に「満洲国」を承認しようと急いで、同年9月武藤信義大使と「満洲国」国務総理・鄭孝胥との間に「日満議定書」が交わされた。
しかし、「リットン報告書」は満州に自治機構を作るという妥協案を提示する一方、柳条湖事件以降の軍事行動には正当性がなく、「満洲国」も主体的な独立運動の結果としてできた国ではないと報告した。
そして1933年2月24日、国際連盟総会においてリットン報告書を基礎とする「満洲国」否認の対日勧告案が決議され、賛成42、反対1、棄権1(シャム=現・タイ)で採択した。
唯一の反対票を投じた日本の松岡洋右代表は国連総会の会場を退席、3月27日、日本政府は正式に連盟脱退を通告し、これ以後、国際的孤立を深めた。 【「らてまが」
vol.19 掲載】 |
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| 3月28日 |
スリーマイル島原発事故(1979年、昭和54年) |
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1979年3月28日、アメリカ合衆国ペンシルバニア州のスリーマイル島原子力発電所で大量の放射能漏れ事故が発生。州知事は非常事態宣言をし、周辺住民は避難した。
スリーマイル島事故をきっかけに、原子炉が大爆発をして炉心が地球の反対側の中国まで突き抜けてしまうという意味の「チャイナ・シンドローム」が流行語になった。
事故当時、スリーマイル島の事故を予想したかのように、原子炉事故を題材にした映画「チャイナ・シンドローム」が制作・公開されていた。 【「らてまが」
vol.19 掲載】 |
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| 3月29日 |
三池闘争、暴力団の襲撃で労組員が死亡(1960年、昭和35年) |
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1960年(昭和35年)1月九州の三井三池炭鉱で、人員整理反対の大争議がおきた。
争議が長期化するにともない、組合内部が動揺し第2組合が結成された。
第2組合は会社側と折り合いをつけ就労を強行しようとしたが、これを阻止しようとする第1組合員との間で、3月28日流血の惨事がおきた。
翌29日には徹夜でピケをはる第1組合員に対して暴力団が殴り込み、組合員が刺殺された。
三池闘争は、折からの安保闘争と結びついて政治問題化し、年末ようやく収拾した。 【「らてまが」
vol.19 掲載】 |
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| 3月31日 |
赤軍、「よど号」ハイジャック事件(1970年、昭和45年) |
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1970年(昭和45年)3月31日、赤軍派学生9人に、羽田発福岡行の日航機「よど号」がハイジャックされた。
日本航空史上はじめてのハイジャック事件に、人々は大きな衝撃をうけた。
「よど号」は給油のために福岡空港に着陸し、女性・子ども23人を解放、残った男性乗客を乗せて韓国の金浦空港へ向かった。
4月3日山村運輸政務次官が韓国へ飛び、身代わりとなり、乗客99人スチュワーデス4人が79時間ぶりに救出され、犯人は北朝鮮に亡命した。
機長らは機体とともに帰国した。 【「らてまが」 vol.19
掲載】 |
| 4月6日 |
第1回アテネ五輪大会開かれる(1896年、明治29年) |
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フランスの教育学者クーベルタンの提唱をもとにして、1896年4月、アテネで第1回の近代オリンピックが開かれた。参加選手は男子のみ。
古代パンアテナイ競技場跡地に建てられた5万人収容の大理石づくりの競技場で行われた。
以後、第二次世界大戦による一時中断をはさみながらも4年に1度のペースで継続され、2004年には第28回大会が再びアテネで開催される。
冬季大会は、1924年フランスのシャモニー・モンブランで第1回大会が開かれ、2002年のソルトレーク大会で19回目である。 【「らてまが」
vol.20 掲載】 |
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| 4月10日 |
明仁皇太子殿下(平成天皇)と美智子妃 ご成婚(1959年、昭和34年) |
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1959年(昭和34年)4月10日、当時の皇太子明仁殿下と正田美智子さんが結婚の儀をあげた。
民間からの未来の「皇后陛下」に国民は熱狂し、「ミッチーブーム」が巻き起こった。
お二人の結婚式を見るために、日本の家庭のテレビ普及率は急上昇した。 【「らてまが」
vol.20 掲載】 |
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| 4月12日 |
霞ヶ関ビル竣工(1968年、昭和43年) |
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1960年代の高度経済成長は街の景観を一新した。
日本中の都市に、商店街のアーケードや舗道が整備され、近代的なビルが建設された。
こうしたなかで1968年(昭和43年)4月、東京都千代田区に超高層ビルが誕生した。
地上36階、147メートル。日本最初の超高層ビルとして観光名所のひとつとなった。 【「らてまが」
vol.20 掲載】 |
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| 4月12日 |
スペースシャトル・コロンビア号打ち上げ成功(1981年、昭和56年) |
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1981年4月、スペースシャトル「コロンビア」が打上げに成功した。
アメリカはアポロ計画に続く大型宇宙開発計画としてスペースシャトルを計画した。
NASA(アメリカ航空宇宙局)は「コロンビア」以降多くの有人宇宙飛行を行ったが、1986年には「チャレンジャー」が炎上爆発するという大惨事が起きた。
冷戦終結後は、国際宇宙ステーション建設計画を遂行するため、日本人を含む各国の宇宙飛行士を乗せ活躍したが、2月、「コロンビア」号が着陸寸前の大気圏内で空中分解する大惨事をひきおこし、宇宙ステーション建設計画は大きくずれこむことになった。 【「らてまが」
vol.20 掲載】 |
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| 4月15日 |
タイタニック号沈没(1912年、明治45年) |
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タイタニック号は、イギリス・ホワイトスターライン社が建造した船で、スピードよりも快適な乗り心地を求めてつくられた豪華客船である(総トン数46328トン、長さ259m、幅28m、速力22ノット)。
1912年4月10日、初の航海として、内外の有名人を含む約2200人の乗客・乗員を乗せてイギリス・サザンプトンを出港、ニューヨークへ向けて大西洋を横断するはずだった。
だがその途中、同号は1912年4月14日夜11時40分、北大西洋のニューファンドランド沖(北緯41度46分・西経50度14分)で氷山に接触し、90mにわたる裂け目を生じて海水が入り込み、15日午前2時20分に沈没。
救命艇は乗船者の半数ほどしか収容できず、約2200名の乗船者中1513名が死亡した。
なお、救難信号「SOS」が初めて発信されたのがこのときであったという。
タイタニック号の事故は世界最大の海難事故とされるが、翌1913年にロンドンで海上の安全に関する国際会議が開かれるなど、航海の安全対策に大々的に力が入れられるきっかけとなった。 【「らてまが」
vol.20 掲載】 |
| 4月19日 |
円高最高 79.75円(1995年、平成7年) |
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1973年のニクソン・ショックで変動相場制に移行して以来、円高は長期トレンドとなった。1979年の第二次石油ショック前後に200円まで急上昇し、その後250円程度に落ち着いたが、1985年のプラザ合意で再び円高に拍車がかかり、1995年4月19日には79.75円という最高を記録した。当時はこのまま1ドル50円台に突入するという風説もながれた。 【「らてまが」
vol.21 掲載】 |
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| 4月25日 |
米ソ両軍のエルベの誓い(1945年、昭和20年) |
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第二次世界大戦は、1994年6月連合軍がノルマンディに上陸して以降、ドイツ軍の劣勢が決定的となり、10月21日には、ドイツの大都市としてはじめてアーヘンがアメリカ軍に占領された。ドイツでは16歳から60歳までの男子が全て突撃隊に徴集されたが、動員兵力は底をついていた。
1945年に入るとドイツ軍は各地で総崩れとなり、東西からソ連軍とアメリカ・イギリス軍がドイツ領内になだれのように進撃した。3月に入るとアメリカ軍はライン川を渡り、ヒトラーが焦土命令(後退の際に全てを破壊する命令)を下し抵抗するなかベルリンへ迫った。
4月13日ソ連軍がウィーンを占領し、4月25日、東から進撃したソ連軍と、西から進撃したアメリカ軍は、ベルリン南方20キロメートルのエルベ河畔のトルガウ村で合流した。両軍の兵士らは壊れた橋の上で平和を誓い合った。このニュースは世界中に伝えられ、連合国民に平和の到来を確信させた。 【「らてまが」
vol.21 掲載】 |
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| 4月26日 |
チェルノブイリ原発事故(1986年、昭和61年) |
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1986年4月26日、旧ソヴィエト連邦ウクライナ共和国チェルノブイリ原子力発電所の4号炉で発生した大事故。この事故によって膨大な量の放射性物質がまき散らされ、周辺だけでなく国境を越えてヨーロッパ各地が汚染された。住民、環境、生態系など広範囲に及ぶ汚染は原子力発電所関係の事故としては史上最悪のものであった。
事故の原因は、定期点検で出力を停止する際に実験を行おうとして出力が下がりすぎ、そこで制御棒を引き抜いたところ、たまたま緊急停止装置が外されていたために原子炉が暴走したことにある。これにより大量の蒸気が発生して爆発、さらに水素爆発が起きた。
この事故では直後に31人が死亡。5年後には死者61人、放射能を浴びた人々57万人以上で、とりわけ甲状腺ガンになる子どもの数が事件後に増加した。また、周辺30キロメートルの住民十数万人が避難した。 【「らてまが」
vol.21 掲載】 |
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| 4月28日 |
第1回ブラジル移民(1908年、明治41年) |
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1908年(明治41年)4月28日、ちょうど日本から見て地球の裏側にあたる南アメリカ大陸のブラジルに、第1回目の移民783人が笠戸丸に乗って出発した。この移民は国策として推進され、募集に応じたのは主に沖縄県・鹿児島県・熊本県・福島県の四県出身者であった。
最盛期は1930年(昭和5年)からの十年間で、十数万人が渡航している。これは北米で日本人移民の制限と禁止が行われる一方、ブラジルの資本家が積極的に日本人の受け入れを推進したことによる。
移民の大半は主としてサンパウロ州のコーヒー農園の労働者として働き、次第に土地を購入し自作農に転じていった。ブラジルには広大な土地があり、移民たちはその土地を手に入れて働くことを夢見ていたが、現実には厳しい搾取、なれない気候、熱帯の痩せた土地や人種差別など、苦労の連続であった。それにも負けず勤勉に働き、荒れ地をコーヒー農園に見事に生まれ変わらせたり、アマゾン流域にジュート麻やコショウを栽培したりして成功する日系人も生まれ、日系人の評判を高めた。第二次大戦後は、農業以外の専門職に就く者も増えている。 【「らてまが」
vol.21 掲載】 |
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| 4月30日 |
ヴェトナム戦争終結(1975年、昭和50年) |
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第二次世界大戦後にフランスからの独立戦争が始まって以来、ヴェトナムでは戦争が絶えなかった。1954年のジュネーヴ協定によって、ヴェトナムの統一と独立が確認されたが、「北」と「南」は激しく対立した。「南」の独裁政権とこれを支援するアメリカ、これと戦う南ヴェトナム解放民族戦線と支援する「北」との間で、激しい戦闘が行われた。
1965年アメリカが「北爆」を開始して以来、戦争は本格し、戦争の長期化によってアメリカは大幅な財政赤字に陥り、国際世論の反発や反戦運動の盛り上がりのなかで、1973年1月和平協定が締結された。
アメリカ軍が撤兵してからも戦闘は続いたが、1975年4月30日、解放軍が首都サイゴンに無血入城し、ヴェトナム戦争は終結した。日本は日米安保条約のもとでアメリカ・南ヴェトナム支援の姿勢を貫き、国内の米軍基地は戦争に重要な役割を果たした。そのため、経済的には「ヴェトナム特需」がもたらされたが、「べ平連(ヴェトナムに平和を!市民連合)」などの反戦市民・学生運動も活発化した。 【「らてまが」
vol.21 掲載】 |
| 5月2日 |
第1回メーデー 上野公園で(1920年、大正9年) |
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1920年(大正9年)5月2日、上野公園で15労働団体5000人の労働者が参加した第1回メーデー。
メーデーは1884年(明治17年)アメリカの労働団体が8時間労働を要求して毎年5月1日を期してゼネストを行なう決議をしたことにはじまる。2年後、アメリカでは最初のゼネストが行われ一部の労働者が目的を達した。これが第2インターナショナルで取り上げられ、1890年以来5月1日は国際的示威行動の日として広まった。
日本では1905年、平民社による記念集会がもたれたが弾圧され、1920年、第1回のメーデーが行われた。15の労働団体を代表して大日本労働総同盟の鈴木文治が開会宣言。前年からこの年にかけて労働運動が活発化し、この年3月には株価大暴落で戦後恐慌に突入し、生活と失業の不安におびえる労働者の運動は急進化した。
「治安法撤廃」「最低賃金」「失業防止」などののぼりを掲げ、最後に「万国の労働者万歳」が三唱された。メーデーは1936年(昭和11年)政府によって禁止されるまで通算16回を数えた。 【「らてまが」
vol.22 掲載】 |
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| 5月3日 |
極東国際軍事裁判始まる(1946年、昭和21年) |
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極東国際軍事裁判(東京裁判)はポツダム宣言にもとづいて1946年(昭和21年)5月開廷され、日本の戦争指導者28人が起訴された。この裁判は侵略戦争の計画・遂行など「平和に対する罪」について裁いたところに特徴がある。裁判はアメリカの主導で進められ、ドイツのニュルンベルク裁判が、米・英・仏・ソ4国対等の立場でおこなわれたのと対照的である。
1948年には東条英機・広田弘毅以下7人の絞首刑をはじめとして、裁判中病死・発狂した3名を除いて全員有罪の判決が下された。一般国民はこの裁判によって初めて「聖戦」と言われた戦争の背後にあった醜い現実を知ったが、さまざまな問題も残された。
天皇の戦争責任問題は、日本国民の感情を重視して占領統治を順調にすすめるために問題とされず、また皇族や財界人も追及を免れた。植民地支配や、生物・化学兵器の使用も不問に付された。一方では、戦争裁判は勝者が敗者を裁いたに過ぎないという主張もある。
極東国際軍事裁判とは別に、連合国各国の軍事法廷では捕虜虐待など通例の戦争犯罪がB・C級戦犯として裁かれ、5400人余が起訴され937人が死刑判決を受けた。 【「らてまが」
vol.22 掲載】 |
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| 5月4日 |
五・四運動(1919年、大正8年) |
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1919年(大正8年)の1月から開催されたパリ講和会議で、戦前にドイツがもっていた山東半島の権益返還の要求が無視されると、中国民衆の不満は日本と、日本の言いなりになっている北京政府の要人に向けられた。
同年5月4日、北京の天安門広場に集まった北京大学など十余校の学生約3000人は「青島を奪回せよ」「売国奴を懲罰せよ」「日本は対華二十一ヵ条を取り消せ」などの要求を掲げてデモをおこなった。これを「五・四運動」と呼び、同年3月1日から植民地朝鮮で広がった「三・一運動」と並ぶアジアの民衆運動となった。
運動は全国に広がり、日本からの輸入品の不買運動(日貨ボイコット)がおこなわれ、中国市場に依存していた日本の産業界は大きな打撃を受けた。運動はついに北京政府を屈服させ、親日要人の罷免とヴェルサイユ条約の調印拒否を決定させた。
このころから、孫文の率いる革命派も、民衆に革命の基盤を置くことを重視し始め、同年10月に中華革命党を中国国民党に改組し、ソヴィエト・ロシアと提携を強めていった。 【「らてまが」
vol.22 掲載】 |
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| 5月11日 |
大津事件(1891年、明治24年) |
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1891年(明治24年)5月に日本を訪問中であったロシア帝国皇太子ニコライ(のちのニコライ二世)が滋賀県大津で襲撃される事件が起こった。これを大津事件と呼ぶ。
5月11日午後1時半頃、ニコライは京都に向け大津市内を進行中だったが、警備の巡査・津田三蔵が突然剣を抜いて切りつけ、頭部に傷を負った。負傷した皇太子は、近くの店に逃れ応急手当てをうけた。津田はニコライの来日を、日本侵略の調査のためと信じて襲撃した。
日露関係の悪化を恐れる政府は、天皇自ら京都に皇太子を見舞うとともに、津田に極刑を課そうと圧力をかけたが、大審院長児島惟謙は、外国の皇太子を襲った者に対して死刑とする法律が無いことを理由にその要求を退け、津田に無期徒刑を言い渡した。これは司法権の独立を守った判決として有名である。 【「らてまが」
vol.22 掲載】 |
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| 5月15日 |
五・一五事件(1932年、昭和7年) |
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1932年(昭和7年)5月15日、海軍の青年将校や陸軍士官候補生らが首相官邸を襲って立憲政友会の犬養毅首相を暗殺し、別グループが内大臣邸・警視庁・日銀・三菱銀行・変電所などを襲撃するという集団テロ、クーデター未遂事件が起きた。
クーデターの目的は、政党・財閥などを脅かし、首都に戒厳令をしいて軍部中心の政権をつくることであった。このような急進的なファシズム団体は当時民間に急増しており、軍の一部や労働者・農民組織の一部とも結びついて大きな政治勢力となっていた。
五・一五事件以外にも、同年2〜3月の血盟団事件(前蔵相の井上準之助、三井財閥のリーダー団琢磨が暗殺された)、1936年の二・二六事件などをおこした。
五・一五事件の公判に際しては、減刑嘆願運動が民間から巻き起こる一方、荒木貞夫陸相や大角岑生海相などの軍人の閣僚も犯人に同情を示した。この事件によって政党内閣は幕を閉じ、軍部はますます力を強めることになった。 【「らてまが」
vol.22 掲載】 |
| 5月16日 |
第一次中東戦争(1948年、昭和23年) |
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19世紀後半からパレスチナにユダヤ人国家を建設する運動がおこり、ユダヤ人が徐々に移り住んだ。特に、ナチスのユダヤ人迫害が本格化すると、パレスチナへ逃れる難民が増加し、しばしばパレスチナ人と衝突を起こした。戦後も、母国を失ったユダヤ人が大挙して移住した。
パレスチナは、第一次世界大戦後イギリスが委任統治を行ってきたが、その期限が終了するにあたって、国連ではパレスチナを分割しユダヤ人の建国を認めることが決議された。これにしたがって1948年5月イスラエルが建国された。
しかし、これを不服とするアラブ諸国はイスラエルに侵入し、第一次中東戦争(パレスチナ戦争)となった。パレスチナ問題は、領土だけでなく、宗教的な対立もあり、その後も戦争と衝突を繰り返してきている。国連パレスチナ調停官となったベルナドッテは、同年9月にユダヤ人によりイェルサレムで暗殺された。 【「らてまが」
vol.23 掲載】 |
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| 5月18日 |
光州事件おこる(1980年、昭和55年) |
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1980年5月18日、韓国の光州市で民主化を要求して反政府運動が起こった(光州事件)。これに対して、韓国軍は武力弾圧に乗り出し、市民との間で騒乱となった。韓国全土に戒厳令がしかれ、同月27日には軍が光州市を制圧、多数の死傷者をだした。 【「らてまが」
vol.23 掲載】 |
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| 5月19日 |
食糧メーデー(1946年、昭和21年) |
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1946年(昭和21年)5月19日に皇居前で「食糧メーデー」が行われた。「金持は配給を遠慮せよ」などプラカードを掲げ、小学生もデモに加わった。
戦後、大都市では、食糧の配給が遅配・欠配つづきで不満は頂点に達していた。配給だけでは到底生活できない状況で、翌47年には一切の闇食糧を拒否して配給生活を送っていた東京地裁の判事が、栄養失調のために死亡するという悲劇がおきた。 【「らてまが」
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| 5月21日 |
リンドバーグ、大西洋横断無着陸飛行(1927年、昭和2年) |
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アメリカ人リンドバーグは、愛機「スピリット・オブ・セントルイス号」を操縦し、1927年5月20日〜21日にかけてはじめて大西洋横断無着陸飛行に成功した。横断飛行に必要な十分な燃料を積み込むために無線機や燃料計もはずし、単独飛行で2日間眠ることもできない無謀な計画だったが、ニューヨーク・パリ間を33時間30分で飛行した。彼の離陸が伝えられるとアメリカは異常な興奮につつまれ、パリでも飛行場には10万人が押しかけた。
飛行家として有名となったリンドバーグは、1931年(昭和6年)夫婦で日本へも飛来した。1932年は彼の幼児が誘拐され、2ヵ月後に自宅付近で死体となって発見される事件があり、これが誘拐罪に重罰を課すいわゆる〈リンドバーグ法〉制定のきっかけとなった。1939年に陸軍省に配属されたが、1941年アメリカの第二次世界大戦参戦に反対してローズヴェルト大統領に罷免された。 【「らてまが」
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| 5月24日 |
チリ地震津波(1960年、昭和35年) |
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南米チリで起こった地震の余波を受けて、1960年(昭和35年)5月24日、東北地方の太平洋沿岸に津波が押寄せ、死者行方不明者が139人に及んだ。宮城県塩釜市では、松島遊覧船が街中に打ち上げられなど、日本中に津波のこわさを知らしめることになった。【「らてまが」
vol.23 掲載】 |